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流罪 毒殺?斎王だった井上内親王の数奇な運命 ことの葉綴り 九二〇回

平らかでありますように

おはようございます。今週、バタバタで「ことの葉綴り」お昼前になっております(ペコリ)。
皆さん、お元気でお過ごしでしょうか?
さて、九月七日(水)の暦は、六曜は「先勝せんしょう」で先んじることで幸を勝ち取るとされる日。午前が吉。十二直は「たいら」で、物事が平らかに平等円満になる日。地固め、建築、引越し、旅行、すべて障りなし。二十八宿は「へきで、開店開業、旅行、建築、衣類の仕立てにもいい日(近年は、服を仕立てることは減りましたね)。そして、ご神事やお参りにいい「神吉日かみよしにち」です。週半ば、疲れも出やすい頃ですが、睡眠しっかりとって元気で過ごしたいですね。


身重の体で流罪に

さて、今回も早速ですが、伊勢の神宮で、天照大御神さまにお仕えする「斎王いつきのみこ」に、5歳で選ばれて、十一歳から三十歳まで、伊勢の斎宮に入られて十九年間、祭祀をおこなわれた井上内親王いのうえないしんのうさまの、お話です。
斎王いつきのみこのお役目を終えられたのちは、都に戻り、結婚し、三十八歳で酒人内親王さかひとのないしんのう。四十五歳で他戸おさべしんのうとなられました。

夫は、光仁こうにん天皇としてご即位されると、井上内親王いのうえないしんのうさまも皇后になられました。

それからわずか二年後、七七二年、急転直下、災いが降りかかります。

光仁こうにん天皇を呪い、早死にを願い、息子である皇子の他戸皇子おさべのみこを天皇の位につけようと祈祷した……との「密告」により大逆罪の罪を着せられて、井上内親王いのうえないしんのうさまと、皇太子他戸皇子おさべのみこは、皇位をはく奪されたのです。

それだけではありません。

皇位をはく奪された翌七七三年井上内親王いのうえないしんのうさまは、夫光仁こうにん天皇の姉の難波内親王なにわのないしんのうを呪い殺そうとした「厭魅(えんみ)」の罪により、都から、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)に流罪となり、没官(官職を取り上げられた人の館)へと、幽閉されたのです。きっと粗末な館だったのではないでしょうか……。

このとき、井上内親王いのうえないしんのうさまは、お腹に新たな命を身籠っていたそうです。

幽閉が決まり、都から宇智郡(奈良県五條市)へと送られるとき、この道程のさ中、井上内親王いのうえないしんのうさまは、男の赤ちゃんを出産されたそうです。


幽閉されたのちに毒殺?!

なぜ、宇智郡(五條市)に流されたのか?
それは、「密告」をして、井上内親王いのうえないしんのうさまと、皇太子他戸皇子おさべのみこ大逆の罪を着せて皇位を奪い失脚させて、別の皇子を皇太子にしようとした黒幕がいたのです。
それが、藤原百川ふじわらのももかわとされています。
神代の神話の時代とはちがう、奈良時代に入ると、律令制は確立したからこそ、皇位や権力を巡る争いが激しかったようです。

西には高野山、東には吉野に挟まれる五條市は、当時の宇智郡は、この藤原南家のゆかりの地であり、その使われなくなった館へと、幽閉したのです。

幽閉されてから三年後の七七五年四月二十七日。
井上内親王いのうえないしんのうさま五九歳、他戸親王おさべのしんのうさまはまだ十五歳という若さで、謎の死を遂げられます。

母子ともに毒殺された……とされています。

流罪で流される途中に、生れた男児は、やがて母と兄の怨みを晴らすために、雷神となられ、その出生地は、「産屋峰(うぶやみね)」と呼ばれているそうです。
井上内親王いのうえないしんのうさまが、出産されたのは、現在は、「奈良カントリークラブ」のあたりだとされています。

数奇な運命を辿られた斎王いつきのみこ井上内親王いのうえないしんのうさま。
亡くなれたのちも、まだお話が続くのです…。

―次回へ。

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