小学校高学年の教育のあり方
今までに、開成中学、灘中学、筑波大学付属駒場中学の入試問題を解いてきました。灘中学と筑波大学付属駒場中学の問題の一部に問題を解く上で与えなくてもよい情報が見られ(特に灘中学!)秀麗さに欠ける出題がありましたが、より効率の良いアルゴリズムを考えることを促すという点でSTEM(最近はAIについても含んだSTEAMという人もいます)教育の方向性と一致点が見いだせました。(入試問題への考察をお読みいただける方が予想以上にいらっしゃるので、これは細々と続けていこうと思います。)
また、数学的な表現や式変形によって、問題解決の見通しが良くなる出題も散見され、「算数縛り」などしないで、どんどん数学的な解法を提示していけばよいと思いました。
明示的に数学的な表現やそれらの操作を用いなくても、上に挙げた中学の入試問題が解けるという資質があるような児童には、むしろ数学的な表現や操作を提示して、より高度な問題解決を可能にしてあげた方がモチベーションが上がるのではないかと思いました。
もちろん、児童一人一人の資質には多様なものがあります。私が今までに見てきたのはもっぱら数学的あるいはコンピューターサイエンス(CS)的な観点からで、多様な資質の1側面に過ぎないということは承知しています。
しかし、国にとっては非常に頭が痛い問題でしょうが、児童にとっては幸運なことに「少子化」が進んでいます。これは、教員の方々が1人1人の児童個々の資質を従前よりよく見ることができるということを意味していると思います。
また、こと「知識」やその「分かりやすい指導」については、ネット上で(玉石混交ではありますが)数えきれないほど流通しています。児童がこれらにアクセスすることに「規制」をかけるという考え方もあるでしょう。しかし、その「規制」が知識勾配に基礎付けられた教員の権威の失墜を防ぐという目的であるとすれば、まったく不当なものだと言いたくなります。
例えば、1個240円のケーキを5個買った時の値段を求めるときの式として、5×240とすることを可としないという教員の方がおられ、児童の発達段階に考慮して単価×個数ということがちゃんと観念されているかどうかを見る等の教育的配慮からそうしたことが行われているといった議論もあるようです。これも児童の資質次第だと思うのです。あるいは、この問題に対するアプローチとしては、240+240+240+240+240というものもありますが、「今はかけ算の単元だから、不可」とすることに対しても私は少々違和感を覚えてしまうのです。かけ算の学習は「九九」を覚えたことを覚えており、確か小2で学ぶのだと認識しています。小2で上の足し算を筆算でやれることper se大したもので、それはそれとして評価するべきなのではないかと思うのです。
「まだ教えていない」とか「今学ばせていること違う」などという教員の側の都合で一律に可、不可の判定をすべきではないというのが私の立場です。
私自身もある時期、試験作成に携わったことがあります。受験者の答案からサンプルを取り出して採点して、採点基準の策定も行うのですが、試験というのは「出題者の意図を酌んで答えるべき」という立場から低評価にしようという方と対立したことがあります。そういうことを忖度して答えることは、当該教科の本旨ではないでしょう、と。
出題者の意図を考えなければならないのは「現代文」くらいではないでしょうか。出典とされる文章に対する出題者の解釈に基づいて作問がなされるわけですから、そのような問題で「正解」を得るためには、確かに出題者がどう読んだかという忖度とはいわないまでも視点が必要であることは否定しません。かつて、自分の文章を試験問題に使われた筆者が、その問題は失当だと出題者にクレームをつけたという事件もありました(当時少し話題になりました)。この事件は、まず出題者の読解力が未熟だったのではないかという問題を提起しているように思いますが、加えていうならば、一旦文章にし、公にしたものをどう扱われようがそれはもはや筆者のコントロールの及ばないことだという覚悟が当該筆者に足らなかったのではないかという点も指摘すべきだと当時思ったことを思い出しました。試験作成については、なかなか奥が深いものがあります。
いま必要なことは、1人1人の児童の資質をより詳しくみてあげるということです。同じ問題への解答に現れる資質の多様性を踏まえてそれぞれに合った手引きしていくことが教育の場に求められているのではないでしょうか。
ですから、数学でいえば、小5で微積を学ぶ児童がいてもいいですし(公文式の教室にそういう児童がいたりします)、小2でかけ算を使えずに(使わずに?)問題を解く児童がいてもいいのではないかと思うのです。
恐らくは、一般的な教員の方がお持ちのものよりも的確な指導内容にかかわる情報や、より分かりやすいその指導がネット上に溢れているであろうということは既に述べました。そうしたリソースに児童がアクセスすることを脅威と感じる必要もないと思います。制限をかけたとしても、その制限を破る術策を編み出す児童が必ず出現することでしょう。
知識勾配に基づく権威的な立場ではいられなくなったが、自分たちの役割が変わったのだ、という認識を教員の方々にはお持ちいただきたいものです。教員が全能であるように振る舞う必要はありません。小学校の教員の方々はほとんどの科目を教えなければならないので、何でも知っているという感じになるのかもしれませんが、そういう前提を放棄してしまえばよいのです。その代わりに、あることについて知りたければ、ここにこういうリソースがあるよ、とか、自分もわからないから一緒に調べてみようか、とか、君はそんなことをどうやって考え出したの、教えてくれないかな、といった接し方をされてはどうでしょうか。
小学校の教員の方々がいかに大変かは重々承知しており、尊敬の念も抱いております。小1の児童の下の世話から、現状のような中学受験の影響でガタガタになっている高学年の児童や保護者対応など、想像を絶する骨折りをされていることでしょう。
そうした方々の労苦を低減させることも考えていくべきだとも考えています。
文教行政に携わる方々にもこうしたパラダイムシフトを受容していただき、学校というシステムのデザインを再構築し、教科毎の飛び級、あるいは無学年制といった児童の資質を最大限に高める施策を立てていただきたいと思います。
こうした変化を教育現場にもたらす上で一番強力なのは、市区町村の首長だというお話は、後日またしたいと思います。