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日常のお裾分け『また団地のふたり』(藤野千夜)
ああ、今日も疲れた。
早く帰って休みたい。最早家に帰ることすら面倒くさい。
とぼとぼ歩いていたら、向かいから見知った顔が近づいてくる。
「こんばんは!これ、よかったらどう?うちで獲れすぎちゃったのよねぇ。どれか好きなものある?」
両手から溢れんばかりの野菜や果実。
目の前にぐいっと現れた鮮やかさに、一瞬戸惑いつつも心がほのかに潤う。
これはそんな本だった。
すっと目の前に差し出される、押し付けがましくない、それでいてさりげない応援の込められたお裾分け。
50代前半の女同士。
ごじゅうだい、ってすごく歳とった感じがする。と、若かりし頃ならそう決めつけていた。
今や私も40代。なっちゃん、ノエチとそう変わらない年齢までたどり着いている。
そう、今だからわかる。30代になろうが40代になろうが、ひとはそんな急激に変わらないということを。この年齢に達したら、ものすごく大人。なんてことはない。好きなものにはしゃいだり、些細なことにへこんだり、でも小さな親切でぐっと立ち直ったり。そういう心の動きは、いくつになっても変わらず共にある。
メンタルめためたでたどり着いたクレオパトラブックスで、ピサの斜塔かな?くらい本を購入したのだけど(その話もまた書きたい)。その中で、いま真っ先に読むならどれがいいですかね。の問いに「まずこれ!絶対これこれ!」とクレオさんが力強く勧めてくれたのが、この本。
クレオさんからのあたたかい励ましが込められてるのを感じる。うれしい。
むずかしいことを何も考えなくても、するすると読める。読めてしまった。
中身がないとかつまらないという意味ではない。むしろ、中身がなかったりつまらなかったりしたら、メンタルめためた状態の時には読むことができない。読めるかこんな本!と投げ出してしまうはず。
あと、本にはタイミングや相性が絶対にある。どんなに面白くてもどんなに名作でも、自分のメンタルとしっくりこないと読めない。で、暫く本棚に寝かせてあった本を不意に手に取ってみたら「こんなオモロい本がなぜ放置されてたんだ!」と驚いたりする。先日は東野圭吾さんの『マスカレード・ホテル』でこの状態に陥った。
団地のふたりは、今の私にぴったりしっくりな本だったのだ。やはりクレオさんの選書力はすごい。
派手な事件は起きない。
ときめく恋愛シーンも出てこない。
少しずつ変化のある、穏やかな日常の繰り返し。
それが、とてもいい。
友達は多ければ多い方がいい、知り合いも多ければ多い方がいい、なんなら多い方がかっこいい。そんな風に思っていた時期が確かにある。
ふたりを見ていて気づく。そんな時は過ぎた。大切な友人は1人か2人いたら最高にラッキーだ。会いたくない人に無理に会うことはない。自分の心に素直でいたって、誰からも怒られたりしないんだと(迷惑かけるのはだめだけど)。
ホットケーキのために1時間待つことを相談なく決めて、内心ドキドキしていたなっちゃんの気持ちが、あまりにもよくわかってしまった。
だけど、何も言わず自然に席に着くノエチの気持ちも、とってもわかる。
大切な友人ならば、そんなことは何も気になったりしないんだ。些細なこと。無理なら無理と言えばいいんだから。そして、もし無理と言ったって、角なんか立たない。
ちょっと色んなことに気を遣いすぎてたな。今年の自分。なんなら、今までずっと。
「また」団地のふたり、なのだから、どうやら一作目があるようだ。
そっちも近いうちに読んで、またふたりに少し元気をお裾分けしてもらいに行こう。