『私はわたし!』は、なんとマントラだった!~momoの『ほほっ~』日記
今日は、今朝の朝瞑想の体感と気づきからのシェア。
『私って本当に、、、もう、、、、なんだから( ゚Д゚)』
と心の中のネガティブな
ささやき悪魔の声が出てきて
その声が振り払えない時。
思考優位のエネルギーから
自分自身に降りていけない時。
『私は、わたし!』『私は、わたし!』を
呪文のように繰り返して自分に潜っていくと
あらま~不思議。
スイッチが切り替わって、
自分の根っこにつながって
ただそこにあるエネルギーとしての
自分とそれを取り巻く世界に
つながるのだというお話。
『自分はどうしてこうなの・・・?』とか、
『本当はこうしたいのに、でも、、、、』と
立ち止まってしまいがちな人。
『頭で考えてしまって、今を楽しめない』なんて人には
頭というコントロール装置につかまって
自分の根っこに降りていけない人にお勧めです。
私が『瞑想』って!(笑)でも、大事です。
これまで人生、理屈で何とかなるっしょ!
と思ってきた私にとってとって、
一日『ただ眼を閉じて、何も外から取り入れない時間』を
作るってのはここ数か月の新しい習慣。
でも、案外、これがいいんだな~!
今では、スキップした日の経過と、
『外界からの情報遮断時間&スペース』としての瞑想を
した日との自分の快適指数の違いが分かるようになった。
なんでなのか?その意味は、
『息継ぎしよう!』にも書いたので、
よかったらそれも読んでみてね。
今朝のコンディションと今日の体感から
今朝というか、最近のコンディションは、
体がやたら重く感じること。
そして、玉ねぎの皮をむくように
これまでさんざん取り払ってきた
『自分ってなんだかもう。…。』っていうネガティブちゃんの声。
まるで、『ここにまだ、いるからね。僕』ってな感じ。
今朝は、
朝のTANDEN瞑想の時間に座り始めても
重い頭と、固く凝り固まった胃のあたりがじゃまをして
丹田にエネルギーが下りて行かない感じ。
『はあ~。こんなに私の体は固まっているじゃん。』
ベットの上の座禅という日頃の良くわからないポーズから
降りて、
手を当てて、まず頭のエネルギーをほぐす。
少し軽くなる。
でも、まだ、胃の周りが全然硬くて、
これじゃ丹田にエネルギーどころか息も通らない。
手を当てて、体が揺れ始めるのを待ってみたり。
体の中心軸を作って、
敢えてエネルギーを流すと意図をしてみたり。
ただし、きょうは、あまりどれもうまくいかない感じ。
もともと、私は第三のチャクラがやや弱い。
自己のアイデンティティー。
『自分は自分でOKという感覚』をつかさどる
エネルギーのセンターである。
これは、
生まれ育った環境から来るものもあるし
もっと言えば、魂レベルでここからスタートする
という課題レベルのことでもあるのだ。
『私は、わたし!』『私は、わたし!』そして …『わたしは、ワタシ:見る側の意識』
ふと、第三のチャクラのこりに意識を当てて、ほぐしてみようと
『私は、わたし!』を呪文のように何度も唱えてみた。
『私は、わたし!』『私は、わたし!』『私は、わたし!』
『私は、わたし!』『私は、わたし!』『私は、わたし!』........
『私は、わたし!』『私は、わたし!』『私は、わたし!』
『私は、わたし!』『私は、わたし!』『私は、わたし!』........
『私は、わたし!』『私は、わたし!』『私は、わたし!』
『私は、わたし!』『私は、わたし!』『私は、わたし!』........
すると、不思議な体感がやってきた。
家の壁が突然、『すぷふぁ~ん』と消えたような
感覚をあじわい、
あかるいただ吹き抜ける風のなかにいる
そんな感覚の中にいた。
窓の外で鳴く鳥のついば音と
光、風、自由にうねる風の中に、
ただいまという瞬間にいる。
そんな感覚。
私の思考:『ああ、これなのか~。よく瞑想で体感型の人が
シェアしてくれている感覚って。』
思考が働き、分析を始めると、
またいつもの通常の部屋に戻る感覚に戻ってくる。
で、違う感覚をあじわいたく、
また呪文を唱えてみる。
『私は、わたし!』『私は、わたし!』『私は、わたし!』
『私は、わたし!』『私は、わたし!』『私は、わたし!』........
『私は、わたし!』『私は、わたし!』『私は、わたし!』
『私は、わたし!』『私は、わたし!』『私は、わたし!』........
すると、また垣根のない
ポーンと広い空間に投げ出されたような
体はあるような、ないような感覚。
でも、感じる感覚だけは妙にさえわたっている。
私の思考:
『 …ってことは、「私はわたし!」が
開けゴマっていう呪文になるってこと!?』
『私は、わたし!って、認めて認めていくと、
自分の根っこに降りていけるんだ。面白い』
思考が始まると、体感が部屋の中に戻ってくる。
そこで再度、心の中で、呪文を唱える。
『私は、わたし!』『私は、わたし!』『私は、わたし!』
『私は、わたし!』『私は、わたし!』『私は、わたし!』........
『私は、わたし!』『私は、わたし!』『私は、わたし!』
『私は、わたし!』『私は、わたし!』『私は、わたし!』........
体感は、再び広がって満たされた世界へ。
私の思考:
『でもさ、「私は、わたし!」ってもっと広そう。それ以上。』
『私は、ワタシに通じる』
『ん?............この場合の、ワタシって?
七面倒くさい私という個性をもって
この世界に降りてきて、この個性が経験する体感を
向こう側からただ観ている大いなるワタシ。』
『私は、わたし!が、私は、ワタシ。大いなるワタシに通じる!
これってすごくない!?』
そう思ったら、ひたすらに静かに涙が頬を伝ってきた。
『私は、ワタシ。大いなるワタシ。
私は、わたしで、ややこしくても、面倒な性格でも
スローでも、ちょっと堅苦しくっても、
私が、わたしを生きることが、大いなるワタシにつながる。
私が、わたしを生きることで、大いなるワタシにつながる。
私を、ワタシに拡大するために。』
「私は、わたし!」そして、『私は、ワタシ』。
この世界のヴェールの向こう側から、
個人という着ぐるみをかぶって、この世界を不器用に
いとおしく体験する人間のワタシを
眺め観て限りない愛を送っている意識としてのワタシ。
価値判断を手放して、自分の存在に降りていく。
人と同じであれない自分という存在を
徹底的に認め、肯定し引き受ける。
そんな作業が、
『自分という小さな箱』の中で苦しんでいるように
見える現状の境目をふとなくして、
実は、ただそこにあるエネルギーと戯れているような
世界へ触れる瞬間を開く扉になるんだなと、
今朝は気づいたひと時でした。
『自分』という個性を生きていることを
認めつくすと
その奥には、自分も他人も、いいも悪いもない
そんな『ただある』世界への扉が開くという不思議。
そんな体感にふれると
この世界で『私』として体感している現実と呼ばれるものは
冒頭最初の写真の影法師のように
映し出されたシルエットなんだというところまで
行きつく扉にも通じている。
どうやら、『私は、わたし!そして私は、ワタシ』の呪文。
限りなくパワフルなマントラのような気がするよ。
この世界で、このシルエットを作り出している本質は
シルエットを作る肉体ではなく
その向こうから燦燦と差し込む光あってこそ。
この差し込む光そのものが、本来の私たちなのであり、
その光が、人間の肉体というキャラをつかって
シルエット遊びをしているのが
いわばこの世界。
玉ねぎの皮むき作業も終盤に入って
最後の深い、ふか~い意識の奥底にある皮むき作業をしている
あなたに、今日の体感とシェアを送ります。
人間という影絵遊びを
思いっきり楽しむために、
『私は、わたし!そして私はワタシ!』
このマントラ、ご活用ください!