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「母にだけ見えない子ども」 ~児童虐待防止推進月間に伝えたいこと②~



社会から孤立し、2人だけの暗くて狭い世界で生きてきたある母娘の話である。


母の変化、日常の崩壊。

30年ほど前のことです。
父、母、兄2人、そして末っ子である私の5人で暮らしていました。

私が4歳くらいの頃だっでしょうか。
新居を建て、家族で移り住み、これから楽しい生活が始まるとワクワクしていたのも束の間、母はなぜか怒りっぽくなり、家事もしなくなりました。

そんな母に父は腹を立て、毎晩のように大声で喧嘩をするようになり、私より10歳以上離れた兄たちも父に加勢。「ちゃんとしろ!」と母を責めました。
私は大声で喧嘩する家族たちが怖くて怖くて、耳をふさいで1人別の部屋に逃げていました。

それから、私は父や兄たちとは小声でこっそりと話すようになりました。母に見つかると私が怒鳴られるからです。
(前までみんなで楽しくおしゃべり出来ていたのにな…。)

小学生には難しすぎる2択

家族がギクシャクする中、私は小学校に入学しました。
学校では友だちも出来て、休み時間は仲良しな子と図書室で本を読んで過ごしたり、放課後はザリガニや虫を捕まえて元気に走り回ったりして、楽しく過ごしていました。
友だちといる間は、家のいざこざなんか忘れることができたのです。

しかし、家の中の空気はどんどん悪くなっていきます。
せっかく建てたばかりの広い家でしたが、母と私は和室1部屋にこもり、父や兄たちとは別々で過ごすようになりました。
家庭内別居、というやつですね。

もうすぐ小学2年生も終わりが近づいたある冬の日、喧嘩ばかりの両親は別れを決め、母は家を出ることに。
私は父と母どちらと暮らすか問われ、両腕をそれぞれ引っ張られ取り合いになりました。

(まるでドラマで見るやつじゃん。)

…私はどこか現実味が失われ、心がどこか別の場所に行ってしまった感じがしました。
小学2年生なりに冷静に考えた結果、母がひとりになるのは可哀想だと思い、
「お父さんやめて!痛い!」
と父の手を振り払い母と暮らすことを選んだのです。

その後、母の地元に引っ越し、2人で暮らすようになると、
「お前の顔は父親にそっくりで腹が立つんだよ!」
母は顔を真っ赤にして怒り、叫びながら、私を布団にくるまれた状態で蹴り続けました。
布団から出た体に足がぶつかっても構うことなく蹴り続ける母。
私は布団の中で涙を流しながら、「ごめんなさい」と許しを請うと同時に、
(可哀想なんて思わなきゃ良かった。)
と、母についてきたことを後悔していました。


悪夢の始まり

しばらくして蹴られることはなくなったものの、ここから何年もの間、心穏やかに過ごせる日なんて1日もありません。

母は働かず私たちは親戚に無心して得たお金で生活していました。親戚の家に行くとき、私は学校を休み母に無理やり一緒に連れて行かれ、「いい加減にしろ!」「仕方ないじゃない!」と、大声で怒鳴り合う声を聞かなくてはならず、(ごめんなさい。ごめんなさい。)と心のなかで唱えながら、苦痛な時間を耐えていました。

親戚にもらったお金の多くは督促状の届いた光熱費の支払いに使われ、ご飯は「米はやる」と農家である親戚が届けてくれたものをお粥にして食べて、服は前の家から持ってきた兄のお下がりのものやホームセンターで買った安い服をボロボロになるまで着ていました。
母は洗濯をしていない服でも平気で着せるので、転校先のクラスメイトからは「汚い。臭い。」と陰口を叩かれ、だんだんといじめられるようになってしまいました。
これで、家での辛い出来事を忘れさせてくれる居場所も失われたのです。

学校での楽しみが無くなったと同じ頃、母は「外にはお前に悪さする人がいる。」と言って1人での外出を禁止し、私を家に閉じ込めようとしました。
だから私は、休日はお花の図鑑を見て花言葉を覚えたり、庭に植えられたバラの花に住み着いたコガネムシを花びらの間から一匹ずつ捕まえてみたりして過ごしました。
(前の家にいたときは友だちと一緒に遊んでいたのにな…。)

私たちの暮らす部屋はいわゆるごみ屋敷。

片付けが苦手で物を捨てられず、よく物をなくしては「お前が盗ったんだろ!」と怒鳴られていました。
外からネズミが入ってきて、夜中に私の布団の上を走っていたときは、悲鳴をあげながら起きました。2度と味わいたくない体験です。

そんな感じで、部屋は汚いし服も清潔とは言えない生活をしていましたが、私の母、お米は石鹸を使って丁寧に洗い続けるんです。
「毒が混ぜられているからそれを落としているんだ。」と言って。


私には見えない誰か、母には見えない私。

おそらく普通のお母さんとは違う私の母は、1日のうちに何度も自分の世界に入り込んでしまうことがありました。

「お母さん、お母さん!」…部屋に2人きりなはずなのに、私がいくら大きな声で呼んでも反応してくれません。近づいて顔を見ると何だか難しい顔をしています。怒っているのでしょうか。
怒らせたら怖いから、今はそっとしておこう…。

しばらくして、母の笑い声が聞こえてきました。一人なのに、楽しそうに何か熱心にお話をしています。
何を話しているかは分からないけれど、なんだかとても機嫌が良さそう。
私は母に近づき、「お母さん!」と声をかけてみます。何度も試してみましたが、残念ながら私の声には気づかず、ひとりごとを続けています。

どうしても自分のことを見てほしい、…そう思った私は母の肩を叩いたり、揺らしてみます。すると急に私の目をガっと睨みつけ、「お前は泥棒だ!」などと、してもいない罪を並べて大声で怒り出すのです。

「悪いことなんてしてないよ!私のことをみてもらいたいだけだよ…。」
そんな訴えも母には届かず、私は涙を流しながら、2時間、3時間といわれのない罪で怒鳴られ続ける…。

「この家は普通じゃない」そんなこと分かっていたけれど、それが周囲にバレるのが怖くて、私は中学生になるまで誰にも相談できないまま、自分の心ひとつでどうにか耐えようとするのでした。



これは、創作の世界の出来事でもなければ、誰かに聞いた話でもありません。
4歳頃から中学校3年生までの間に実際に経験した、私にとっての日常の一部です。

私の母は、統合失調症という精神の病を患っていました。正確な発症時期は特定出来ていませんが、私が3歳頃には妄想などの症状は出ていたと言われています。
母が楽しそうにお話していた相手は私ではなく、母にしか見えないお友達で、
私に被せられた罪の数々は、母にしか聞こえない声が、母に囁やき吹き込んでいたものでした。

もし、適切なタイミングで医療と繋がれていたら、母は元いた家族と離れることもなく、私たち母娘は健やかに過ごせていたかもしれない。
でも、そうはなりませんでした。
ただでさえ表に出づらい「精神病」という問題。子どもながらに、「これは私への試練で、乗り越えなきゃいけない壁なんだ!」と頑張りすぎて「助けて」と言えなかったことで、母が治療を始めるまでに10年以上の月日を要してしまったのです。

しかし、それも私が中学校3年生の秋、終わりをむかえます。

…それはまた、次の投稿で。


※統合失調症は適切に治療すれば社会生活も可能な病気です。
私の幼少期を語る上でどうしても伏せることのできないものなので母の病名を明かしましたが、統合失調症の人は他人を傷つける恐ろしい病だと誤解されることは私の望むことではありません。
正しい知識を持つきっかけになれば嬉しいです。



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