まなざしと演技
「私は〇〇だ」とただしく自称するためには,(他者の)まなざしを要するという私見がある。この事情を無意識においても認めれば,人格形成には一般にまなざしを要すると言ってよかろう。
すると,人格に対する演技と自然体という区別は,本質的に画定するものではなく,がんらい両者は地続きの(グラデーショナルな)関係にあると認められる。
むろん,その違和感の閾値を定めることで演技か否かを人工的に画定せんと試みても構わないが,ここで問題にしたいことは,それではなく,この演技性(⇆自然さ)とでも評するべき値は如何にして定まるのかということだ。
けだし,或る人格の演技性は,これを在らしめるまなざしに感じる支配力と正比例するようにおもわれる。
ところで,いわゆる演技の中には,人格の演技性とは独立したもの──客体をあえて誤認してみせることによって成るものがあろう。先の「まなざしの臨場感」は,正確には私にまなざしを向ける者に対する臨場感の謂だが,こちらの演技性は,私がまなざしを向けるものの臨場感と反比例しよう。
しかして,この二種類の演技性が或る営みに複合的に付されていることもありえよう。