是正衝動とこれへの制動という心的過程に惹起される生理的反応を,われわれは「笑い」と呼んできたのではあるまいか。
ここで,是正衝動とは,或る(もちろんアニマシーな)信念体系に対して,これを是正してやりたいと思う衝動のことであると定義しよう。
例えば,"Ushers will eat latecomers." は大変な様態であるから是正衝動を惹き起こすが,然るにこれが劇場内に堂々と掲げられた看板の文言であれば,"Ushers will seat latecomers."
バーチャル YouTuber(ここでは中の人の謂。以下 V と略記する)の愉しみ方は,〝そのアバター(以下 A と略記する)を演ずる V〟という様態(以下 F と略記する)を敢えて無視する態度こそがあたかも倫理に見える他方で,あえて F を揶揄的に暗示するようなユーモアも,V やそのリスナー達に受け入れられているように見える。
いわゆる中の人ネタ一般への非難を見なくなって久しいが,中の人が起こしたスキャンダルへの非難は昨今にも散見される。つまり,先の「あたかも倫理に見え
本項では,さっこん話題にあがる回転寿司屋で備品を舐めまわしたりコンビニのおでんを触るような蛮行を仲間内で共有(武勇伝かの如く吹聴)したがる者たちをレーサーと総称する。さらに,かような蛮行をオデツンと呼ぶことにする。
さて,次のツイートは,レーサーの心理や文化をかなりの精度で分析しているとおもう。
本項ではこの分析を採用することにして,行為 X が文化 Y に対してオデツンになる必要十分条件を,次の3つだと考えたい。
X が,その行為者が参加するレースにおいて為され
情事において,いわゆる本番行為(以下,本番と略記)そのものよりも本番に至るまでの一連の文脈と事後の諸言及の方がえっちだという事情は認められるが,然るにこの「えっち」さは本番なくしてありえなかったはずである。
この本番という語を,それ自体には威力 X がないのに、それなくして X を在らしめられぬような存在にメタフォライズしてもよかろう。
本番を,単なる物理的な刺激──ピストン運動として捉えるのではなく,もっと一つのシニフィアンとして注視することでこの威力が見えてくる
テクスト a に記される「怪物」の正体は,かつてラカンが大文字の他者(Grand Autre)と呼んだものと重なろう。
本項では,いわゆる「言語化」が成される以前の「心の内」と呼ばれるものにも言語と呼びうる構造を認める。さらに,この「心の内」をいわゆる私的言語と同視せず,まさしく彼が利する(すなわち,使用にまつわる価値によって在らしめられる)一つの言語であると見る。
さて,そうすると,テクスト a が暗示する心情は象徴界に参画することによって「心の内」が轢死すること