見出し画像

生に胚胎される希死念慮

 人格(=アバター)の形成は,それをかくかくしかじかのものであると同定する作業が必須のものであるから,他者のまなざし(=共同体意識)なくしてありえないものである。とは言っても,この他者とは精神的な存在のことであるから,身体的な意味においては一人によって人格を成しうることは否定しない。それどころか,或る意味では彼によってしか人格は成しえないと評価した方が適する筈である。さらにこの話には,サルトルの造語を引用して,彼の対自存在を在らしめる非反省的意識こそがそのときの「他者」を演ずるのであると加えてもよかろう。本書は,自らをまったく顧みない・反省をしないものには,人格を認めない。

 さらに,(精神的な)自他の関係は最小のコミュニティを成しうるものであると本書は考える。しかしてコミュニティも明らかにその個(=成員)を要するものであるから,両は相補的な関係にあると考えることは穏当であろう。人格とコミュニティの誕生は共犯関係にあると言ってよかろう。

 ここで私が語りたいことは,人格の形成過程でつねにすでに闖入するこの評価不可能な他者が,ともするとその人格の持ち主を殺してしまうという事情である。つまり,我々は象徴界に生まれる為にこの絶対的なマーダラー(彼を一方的評価者や非反省的意識者と呼んでもよかろう)を自身の内に棲まわせてしまうのである。

 さて,仕事で負った心傷や心的圧力によって自死を図った人に「自死するほどに辛かったのなら,辞職・離職や転職をすればよかったのに」と言う人がしばしば見られるが,あれは浅慮である。けだし,かような理由によって自死を図る人々は職場に対して強い共同体意識(=対他存在としての自覚)を持っており,その共同体のまなざしが自個* を要らぬものとして消除したのであろう。

 既に見たように,かような危殆は我々の内につねにすでに隠伏している。そこで私は,彼が共同体意識を感じている当のコミュニティに目障りな個の消除を企図して,結果的には自死を為すという事態を(個人的にはひじょうに不愉快ではあるが)認めるのである。つまり,殊に「仕事で負った心傷や心的圧力によって自死を図った人」の心情は,自個を死に至らしめんとしたというよりも,むしろ「自」の意識や臨場感が彼のコミュニティの側にあり,謂わば自己防衛的にそれを生かさんとしたと考えたほうが穏当であるように私にはおもわれるのである。

 コミュニティに所属しなければ,或いはその意識さえ持たなければこの悲劇的な結末を回避できるとは言えるが,コミュニティというもの,否,正確にはそのまなざし(=共同体意識)は,人格形成の過程で必然的に闖入して,つねに隠伏するものであった。私が自らを人格として認めるたびに,このまなざしは虎視眈々とその絶命を狙うのである。

*「自個」とは,コミュニティに対する個について,自分が演ずるそれを特に意味するための造語である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?