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つらつらと、夜。書く、という行為。

長い文章がなかなか書けなくなっている。

書きたいことは時折、ふと浮かぶのに。形にしようと思うと何かが「ちがう」と、言葉を流していく。頭のすこし上、宙に漂ってしまった半透明の文字を感覚で追って、正体のわからない寂しさのような、諦めのようなものを抱きながら、ぼんやりと惜しんでいる。なんだか絡まっているようだから、捕まえようとは思っていない。

今これは、詩を書くときに近い紡ぎ方で書いている。抽象性が高くなると伝わりづらいとは思うけれど、描写を明確にしようと思うとまた「ちがう」という声が聞こえそうで、あえてイメージに比重を置いて、包む、手繰る、覗く、引き寄せる、手に、そして文字に乗せる…。と、書いてみて気づいた。この動詞の羅列が私の「書く」なんだろう。主に、詩において。

同時にこれを書いてみて、具体性を欠くことが、作品の論理性をも奪っているという可能性にも思いあたる。それから、挙げ列ねた行為(動詞たち)は恐らく身体性も薄い。現時点の欠点ではあるけれど、このことが吉と出るか、凶と出るかはまだわからない。判断できるほどの型であり糧としての言葉が、わたしにはまだ圧倒的に足りていないのだと思う。

(どんなやり方がただしいのかもわからないけれど)勉強して、書けるものでもないのだと思う、言葉というのは。その考えは、これまでより深く求めるようになった今でもあまり変わっていない。ただ、求めることをやめてしまったらその時点で遠ざかるような気がしている。求め続けるのは結局のところ、近くにいたい、どこへなのかは明確ではないけれど、届きたい、という心持ちなのかもしれない。

一冊の本を読みきる気概を持とうとして断念してしまうなら、断片でもいい。自分の中の芯を知り、薄くでも肉付けしていくための求め方を継続できれば、例えば広告のちょっとした文言やネットの中にでも、生きる言葉はあるのだと思う。一旦そう信じてみたい。

思いのほか、つらつらと書いてしまった。
夜の深さはこれだから、愉しくも恐ろしいのです(寝不足決定)。


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