内藤 奈美
雑記からはみ出た、やや長めのもの。テーマを決めて書いているもの。
ちょっとした雑記、日記的ななにか。短めのもの。
用事のついでに家から一番近い商店街に足を運んだ。商店街、と言えるほどの規模があるかというとそうでもなくて、控えめなスーパー、最近オープンしたマツキヨ、その周囲にぽつぽつと点在する、美容室、和菓子屋、精肉店、小さな食堂、メインの通りを少し逸れたら、時代を生き残った銭湯、などなど。 その中にいかにも「街の本屋さん」という構えの本屋さんを見つけて、ああそう言えばここに本屋さんがあったなと、久しぶりにその前を通ってから思い出す。一度通過しようとした私の足を止めたのは、ここが、地元で
通り過ぎたものとは、しっかりと決別するべきだ、と思った。幻想を回顧するのは、個人の中でおこなう分には構わない。ただ、自らが積み上げたものは、もうそこにはないと見るべきだ。何においても一生勉強で、やってきたことは過ぎ去った瞬間に、もう存在しないものと思い、また次の学びへ向かう。そうしなければ、老害となるんだろう。年を重ねるということは、経験を積むということは、そういうことになりかねない。 踊りにおいては、過程を大事にするようにと学んできた。ただし結果の世界では、もしくは社会生
可視光線 その空は青いのか。 半年ぶりに休みが取れた日曜日 地球はどこまでも平らかで、 球体、ということを忘れさせる。 公園のベンチできみを見ていた、 それは一種のメロウな呪いで 錯覚という幻影の中で 眠らない夢を抱いている、 体はいつも正直だから きみに嘘は吐けなかった、 真摯で陳腐な文字が遠くで 私を否定している、 きみはいつも柔和に笑って 足元の土を指先で突く、 凸凹なのがいいんだ バランスを取ろうとするから そこに立つ力がつくんだ、と。 凹み同士
ど直球に書くと、察するという文化が苦手だ。 正確には「言わなくてもわかるでしょ」という空気に対応することが。 幼い頃、というよりもわたしは根本的に、今はステージに立っているだなんて一体どういうことですか、と自分に問いたいくらい引っ込み思案だった。 もはやどの口が言っているのかとも思うが、目立ちたくないし、人前で無駄に緊張するし(それは今でも変わらない)、人の顔色ばかり伺っているような子供だった。中高時代の部活やら留学やらの経験と、現在の仕事の関係もあって徐々に慣れていっ
何にも満たされない夜っていうのがある。 決して満たされない状況とは言いきれない、恵まれたところもきちんとあるという自覚はあるのに、足りないものにばかり目を向けてしまう不毛な一日がある。 やることをしっかりやって、明るい明日と未来のために踏み出して、過去なんてなかったことにするみたいに駆け出そうよ、という自分で肥大化させた概念に責められて、勝手にもやもやする。 そう。誰のせいでもなく、勝手にだ。 * 昔、仕事の際にご一緒したプロのヘアメイクさんにこう言われたことがあ
星の街 繁華街のぎらぎらしたネオンも昼間は身を隠しているから、雑踏の只中でもどこか心許なく、そうして星を待つのがわたしたちだ。地上に生えた、めらめらした揺らぎは太陽の下で皮膚の内側に宿ります、浸潤して、血管を巡って、排気ガスを吐くようにやがては人から人へ循環する、触れ合った肩だって冷たい、かもしれないので、不純物を箱に詰めた祝福の、呪い、それが、てらてらとかがやいて見えるのは色眼鏡のお陰でした、ネオンを回遊する魚たちの目はそれでも強すぎる太陽光で白内障かもしれなかったと、六
雨の降る部屋 猥雑なテレビも部屋の明かりも消すと、冷蔵庫の低い唸りと時計の針だけが音を支配する、誰かを傷つけてしまった夕暮れ、嘲笑うように雨は降り出し、傘を持たないぼくの上着に浸水する準備をさせた、数刻前のあの水滴が滲み出して、今さらのように足下には水溜りができている。 長い長いセンテンスを振り返れば、なぜ、も、どうして、もそこにあるのに、知らない振りをするから日々に自分が溶けていく、ぼくにはもう、きみが思い出せない、足下では濡れた靴下が熱だけを奪って、血色を失くして、雨は
夜間高速、疾るうたかた 葉脈に水を通すように 侵食、這いつづけ 温度を運ぶ (或いは運ばない) ひかりの流線は 都市の青い血管 つめたさが肌を刺し 神経は撫でつけられ 絶え間なく 伝達を繰り返す 埋まらない隙間 記憶の距離に数値はなく (交通情報をお伝えいたします) 抑制を効かせた感情 誰でもない何かに向かい 車体は、無機質に滑る 手をのばした 指先の 沸騰した黒い 深いアスファルト、 駆けてゆく 昨日の街並み、 横目に映った ひらひらと舞うシーツ に、抱かれた この先
これを書き終わる頃には2022が終わっているんじゃないかと思う。 そんなぎりぎりをやってしまうのがわたしらしく、2022らしかったりする。 たとえ終わりと始まりを迎えていたとしても、ありなんじゃないかなってタイトルだよねと自分をほんのりと誤魔化しつつ、励ましつつ。 冒頭いきなりですが、2022は本当にたくさんのことが起こりました。印象的なものをざっと列挙するとこんな感じ。 ・配信、配信、また配信。海外参加型オープンマイクの運営、ツイキャスのちょっとしたオープンマイクイ
浮く耳 なんでもないからここにいたんです。 痛いのは耳 冷たい夜気 スピーカーから流れる 電子音のノイズ 電流が乱れると音量が振れるの まるで心霊現象 みたいに。 驚かないでください 調光器が不安定なんです 少し不安なだけなんです 安定を切り離したら 定まらなくなっただけなんです あなた、 どこに いたんですか。 だからね、 なんでもないからここにいたんです 意味が必要だったんですか 意義が求められていたんですか 真夏の生温い水道水が 恋しい のは 洗い物嫌いのせい ああ
巡、 それだから眠れなくて書き記す、ぼやけた思考が巡回している、きみはここにいた、その確らしさを求める数式には出会えなくて、「これは証明の問題ではありません」 言葉という記号すらも解体してしまいたい、表音の、裏側に、表意、憑依、されてしまった意図が、この文字列の表皮に爪を立てて、掻きむしる、快感と自責は隣り合わせだ、いつだって四隅を埋められなくて、ぱたぱたと真っ黒に染まってゆく盤面、ただ、こうして、戯れているだけのたわいの無さが救済になれるのなら、そこに空白なんてできなかっ
選ぶこと、選ばれること。 「誰かと争うことを運命づけられた場所を持てなかったから、わたしたちは呼吸困難だ」 以前、作品の中でこう書いたことがある。けれどそういう場所を持てても持てなくても、ときにわたしたちは呼吸困難に陥りそうになる。呼吸を忘れそうになって酸素不足でくらくらしているのが今だとしたら、どちらに行っても右往左往、どうしようもない〝ないものねだり〟だ。葛藤のすえに導く答えがわたしの存在を消してしまう、その可能性を知っていても、いつだって酸素は足りていない。 苛烈
カウント零 はたはたと 風を鳴らして鳥は去る 窓枠の形に切り取られた空 いくつかの影を追う、 二秒 ひらひらと 手を振り別れる 視界から消えたわたしが あの子の手元のスマホ画面に 存在を忘れられるまで、 一秒 古いレコードの針が 刻まれた溝を撫でなかった 黒い刻印に封じ込められたままの、 零秒。 塗り替えられていく 再開発の駅前に 横たわっていたあのひとは 今はもう、 いない 消えた欠片たちは 追憶の中に 点々と痕を残して 数を喪失していく秒針 刻々と
気のおけない友人と話をする。テキストが伝えるものより多くが伝わる、声というものの力を信じられる瞬間。見えなくても表情が乗る。トーンがある。躊躇いがある。間がある。スピード、感情、即興的な言葉の強さ、弱さ。そこにひとがある、ひとがいる。 テキストとしての詩の役割はまた別にあると思っている。伝えない選択だってあるから。いわゆるメッセージ性のようなものを、わたしは本来それほど入れたいと思っていなくて、あったとしても包んで、ぎゅぎゅっと押し込めて、受け取られなくても構わない。構わな
やるせないという言葉がとてもきれいに思えるほどの、どろりとした質感の澱が溜まっていく。あなたがわたしを知らなくて良かったと思うよ、きみがわたしを知っていてくれてごめん、汚れていたってもう構わない、白い夜、が、侵入して擽る、床下の古びた骨は、いつまでも軋んでいる。
日付は越えているけれどまだ寝ていないからきっとセーフだ、なんて思っている。 夜はわたしに、わたしの言葉を連れてくる。渦巻く思考の内側で行き場をなくすのはいつも、文字になって表出するものとしての言葉ではなくて、きっと心のうちに横たわるどうしても変えられないもの、それは多くのとき怒りや悲しみ、どうしようもない思いだ。 時おり詩として変換されるものは、まっすぐな思いを描かない。性格なのかもしれないし、表現にそれを求めていない部分があるからかもしれない。だから、書いて満たされるか