ブラック・ティーを読んで―人はみな、ささやかな罪人である―
きっかけは新宿御苑だった。ちょうどバラが見ごろで、家族と一緒に見に行ったさい、『ブラック・ティー』というバラを見かけた。
その時姉が、山本文緒さんの『ブラック・ティー』の話をしてくれた。子どもながらに読んで衝撃を受けたこと、そしてタイムカプセルに小説本を埋めたまま、まだ掘り開けていないこと……。
そんな話を聞いた夜、『ブラック・ティー』を読むことに決めた。
『ブラック・ティー』に描かれているのは、罪と共存して生きている人たちの生活だ。罪の内容そのものというより、登場人物たちが罪を犯した経緯やその葛藤に重きを置いていて、さらりと読めるのに読後の苦く、ほの明るい余韻が心地いい作品だった。
印象に強く残った話について記していこうと思う。
表題作『ブラック・ティー』
1話目の話は、無職の主人公が電車に乗り、網棚の忘れ物からお金だけ盗んで生活している、という物語だった。お金以外は興味がないので盗まないという主人公だったが、花束を網棚に置いたまま下車してしまった人に気付く。花束はいらないから置いていったのだろう、と思った主人公の前に現れた少年が、主人公のことを「泥棒」と言う。
そこで、主人公が放るようにして花束を差し出し、泥棒だから自分を警察に突き出してくれ、と少年に訴えかけるシーンが胸に響いた。
それまでは、罪の意識がありながらも、どこか「これでいい」と罪のある生活に対して諦めが滲み出ていた主人公の心情に大きな変化が訪れた場面だ。
誰も主人公の罪を咎めない・気付かなかった今までの日常が、少年と花束をきっかけに崩れてしまい、透明に近かった自身の存在が、「泥棒」として認識されて初めて世界に存在していることを自覚した……そんな印象を、最後の「お巡りさん」の手のひらを熱く感じた「泥棒」、という描写から感じられた。
『百年の恋』
同棲し始めた男女カップルが、立小便をしていたところを彼女に見られたことから喧嘩をしてしまう様子を描いた話。この『ブラック・ティー』の中では一番軽い犯罪に値するように思えるが、「彼女」に色々と問い詰められて罰が悪くなっていく「僕」が、最終的にキセル乗車という罪を犯していた「彼女」の泣く姿を見て介抱してあげる、という構図がすごく良かった。
そもそもキセル乗車とは何か分からなかったので、検索して調べるところから入ったのだが……「僕」が「それくらい誰でもするって」と、散々「彼女」に詰られたあとでもそう言ってあげられるのは、「僕」が「彼女」を愛しているから、というだけではなく、自分も細かな罪を日々重ね、許容して生きているから。「彼女」はキセル乗車の1つの罪でさえ、「僕」にバレた途端泣き出してしまうほど罪の意識が強いので、「僕」は放っておけない人だな、と愛情深くなってしまうのだろうなと感じた。
互いの罪を認め合いながら生きていく二人の姿に、どこか安堵感を覚えていた。
『水商売』
最後の短編、『水商売』。新宿のゲイバーで働く主人公を中心に、秘密や罪を抱えた人々が、それでも続く毎日をただ精一杯生きていく、という淡々としながらも、胸に訴えかけるものがある物語だった。山本文緒さんの作品は、罪を描いていても気持ちがひどく重くなるような書き方をしていない。フラットに描いてくれているおかげで、登場人物たちの生き方に角が立たないというか、「こういう人生もあるんだな」と思わせる説得力がある。
『水商売』のラストの締めくくりにある、この短編集のテーマでもあるのだろう独白に目を奪われた。
私も、自分が犯してきた罪が真実として、世間や家族、親しい人たちに知られてしまったら、という大きな恐怖に駆り立てられながら生きている。だから、「逃げ続けるだけだ」という最後の一文にも共感出来た。
「真実」と「生活」は、結局のところ正反対のところにあると思う。本当のことを知りたがって罪を暴きたがる人なんて、そういう職業か、あるいはその罪を犯した人に執着しているかだろう。生活していくために必要なのは、真実よりもお金や衣食住であって、根掘り葉掘り他人の事情など詮索したって、生きることには繋がらない。
という風に思えてしまうのは、私もまたささやかな罪人であるからなのだろう。
おわりに
バラ始まりで読み始めた『ブラック・ティー』。読書の秋にぴったりな、短い物語の中に濃縮された良さが詰め込まれた、非常に読みやすい1作である。キセル乗車、トールセイバーなど知らないワードも知ることが出来て個人的にはかなり勉強にもなった。ぜひたくさんの人に読んで欲しい。
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