「読みやすさ」ってなんだろう?
以前、記事を納品したクライアントさんからこんなメッセージを受け取ったことがある。
半年ほどお付き合いのあるクライアントさんで、いつもご満足くださっていたと思っていたので、正直このメッセージには驚いた。
たしかに私の記事は「読みやすい」と言われることが多い。Webライターとして「読みやすさ」を大切にしてきたからだ。
けれども、私の記事はクライアントさんにとって「刺さる記事」ではなかった。今の流行り言葉でいえば、「エモさ」が足りなかったのだ。
「読みやすさ」は記事を書く上でただの前提条件でしかない。それなのに、みんなに「読みやすい」と言ってもらい、「読みやすさ」こそ正義だと思い上がっていたのかもしれない。
もちろん「エモさ」が必要ない記事もある。今回のクライアントさんには「エモさ」を求められていたのに、そこに気づけなかったのは私の落ち度だ。
以前、Web記事は読み捨てられるようで虚しいと書いたことがある。
読み捨てられない記事を書きたいと言いつつ、人の心に残る文章は「エッセイ」や「小説」が担っているもの。そう思い込んでいたのかもしれない。
Web記事に求められていることの1つは、読者の悩みを解決できているかどうかだ。人の心を動かすような表現をしなくても、誰かの参考になり役立ったのであれば、それでいい・・・
でも、そこに「エモさ」はいらない?本当に?
この一件があってから、ずっと自問自答している。
書く仕事をしていると、自分の色をつけたいという欲は出てくるものだから・・・
「読みやすい」は褒め言葉として素直に受け取ってもいい。けれども、それ以上でもそれ以下でもないということは、心に留めておきたい。
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