自宅に潜入する男 伊勢物語23-②
1、文字で考えても絵を見ても、やっぱり間抜け。
何が間抜けて、ミッション遂行中の男の絵面。これっすよ。
上の伝俵屋宗達筆の絵を見ても、左上のいないいないばあが気になりすぎて、「おっさん何やってんの」以外の感想が出てこないんです。絵師さんもオーダー受けて描いたものだとしたら、笑いを噛み殺しながら描いてたんじゃないかな。
とりあえず本文を。
さて年ごろふるほどに、女、親なく、頼りなくなるままに、もろともにいふかひなくてあらむやはとて、河内の国、高安の郡に、いき通ふ所いできにけり。さりけれど、このもとの女、あしと思へるけしきもなくて、いだしやりければ、男、こと心ありてかかるにやあらむと思ひうたがひて、前栽のなかにかくれゐて、河内へいぬるかほにて見れば、この女、いとよう化粧じて、うちながめて、
風吹けば沖つしら浪たつた山夜半にや君がひとりこゆらむ
とよみけるを聞きて、かぎりなくかなしと思ひて、河内へもいかずなりにけり。
「前栽のなかにかくれゐて」。
「ゐ」ですから確かに、こんな風にしゃがみこんでのいないいないばあで正解なんでしょうけど。
何でそこであえて、「前栽の中」を選んでんのさ。おかげで狩衣だか直衣だかのおっさんが藪に潜んでスネークごっこやってる絵になっちゃったじゃないか。
俵屋宗達らしき誰かも、もはやギャグで描いてるんじゃねっすかこれ。隠れた上で扇でいないいないばあって。顔だけ隠させた意図を是非聞いてみたい。頭隠して尻隠さずってレベルじゃねえぞ。
なお、現代的感覚で処理すると下のようになるようです(『NHKまんがで読む古典3 源氏物語・伊勢物語』より)。
前栽の解釈が、だいぶ違いますね。森感出てる。
まあ、いないいないばあ男いじりはこれくらいにして、訳を。今回は川上弘美氏にお願いします。
何年かが過ぎた。
女の親が亡くなった。
女の暮らしむきは不如意になっていった。
このままもろともに貧しいままでは困ると男は思った。
そのうちに、河内の国高安の郡(今の大阪府の信貴山の西麓のあたり)に、新しく通うところができた。
それでも女はいやな顔もしない。
こころよく男を送りだしてやる。
まさか女のほうが浮気をしているのでは。
男は疑った。
河内へ行くふりをして、植えこみに隠れ、こっそり女をうかがった。
女はきちんと身仕舞いをただし化粧もし、ものおもいに沈んでいた。
風がふけば
浪はしらじらと立つことでしょう
立つ、ええ、そうよ、龍田山を
あのひとは
今ごろ一人
越えているところなのかしら
女がそう詠んだのを聞いて、男の中にいとしい気持ちがあふれた。
それからはもう、河内高安へはほとんど行かなくなってしまった。
特に、歌の訳にご注目ください。訳しづらいんですよこれ。序詞から下句の心情へのつなぎが特に。教科書的なやつだと「白波が立つ、その立つではないが龍田山を」なんて訳します。みんな大好き「ではないが」。
川上氏は「立つ、ええ、そうよ、龍田山を」。
センスが違いすぎる。
女が内言として抱いていた不安。
不安はふと耳に届いた風の音によりかき立てられる。
このとき不安は胸騒ぎにまで高められ、船出に対する凶兆を示す「沖つ白波」として表象する。
こうして内言として存在していた不安は高められ、外言として歌にあらわれ、男の旅路と結びつけられた。
この複雑な心の動きを、川上氏は「ええ、そうよ」という確かめのそぶりで表現されました。己の内面に漂っていた不安の存在に気づき、認めた口ぶりです。
脱帽です。
2、和歌の訳、やってみようぜ
川上氏の「ええ、そうよ」があんまり見事なので、今回はそれを使って和歌を訳す練習をしてみましょう。語り手が男性なら「ああ、そうだ」。女性なら「ええ、そうよ」を用いて、序詞の使われた和歌を訳してみましょう。
Lesson27 「ええ、そうよ/ああ、そうだ」を用いて和歌を訳しなさい。
題材は有名どころということで、百人一首から。しかも業平のお兄ちゃんのやつを。
たち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む
(あなたと別れ因幡へ行ったとしても、稲葉山の峰に生えている松、その松ではないが、あなたが待つと聞いたら、すぐ帰ってこよう。)
「その○○ではないが」って日本語、和歌の口語訳以外ではほぼ見かけませんね・・・。
さて、この訳を「ああ、そうだ」を使って訳し直してみましょう。できるだけ熱意がこもるように。
《解答例》
あなたと別れ因幡へ行ったとしても
稲葉山の峰に生えている松
ああ、そうだ、あなたが待つと聞いたなら
帰ってこよう
すぐにでも
こんな感じでしょうか。「川上弘美風の訳」感、出てますかね。
3、大和の女
さてこのいじらしい女、『伊勢物語』では素性は分かりませんが、『大和物語』では、「昔、大和の国葛城の郡に住む男女ありけり」と語られており、『伊勢物語』よりも設定が具体的に書かれています。更に和歌の後の展開も加筆されているのですが、僕はそこが好きなんです。ちょっと引用してみます。
かくてなほ見をりければ、この女、うち泣きてふして、金まりに水を入れて、胸になむすゑたりける。「あやし、いかにするにかあらむ」とて、なほ見る。されば、この水、熱湯にたぎりぬれば、湯ふてつ。また水を入る。見るに、いとかなしくて、走り出でて、「いかなる心地し給へば、かくはし給ふぞ」と言ひて、かき抱きてなむ寝にける。
金まり、は金属製のお椀です。胸に水を張ったお椀をあてると、激情のあまり熱くなった胸に暖められ、沸騰するんですね、水が。それほどの温度だと、お椀の中の水以前に、いろいろなものが沸騰しそうな気もするんですが。
『伊勢物語』と比較して読むと、だいたいこの超常現象に目が行きます。つまり『大和物語』で足されている部分ですね。ですが実は、『大和物語』で引かれている部分、『伊勢物語』だけにある部分があります。それが、上に掲げた漫画でも突っ込まれている「この女、いとよう化粧じて、」という部分です。
『伊勢物語』では、龍田山を越えていく男を思い、心配する女の本気度を示す演出、として描かれているのかも知れません。ですが、それ。
伝わらなかったんじゃありません?
僕には少なくとも、ちょっとピンと来ません。無事を願って神仏に祈るために身支度を整えるってんなら、家の縁側よりふさわしい場所がありそうな気がします。
そしてその「ピンとこなさ」は、ひょっとすると平安諸子にも共有されていたんじゃないでしょうか。「なんで男を心配してるこの女、ばっちりメイクきめてんやろ」って思っちゃったんじゃないでしょうか。
ひょっとすると、このわけわかんなさがあったからこそ、『大和物語』でこの話を作り直して掲載する時にはブレーキがゆるんでしまったんじゃないでしょうか。そして「胸の熱でお椀の水の沸騰」というエキセントリックな演出を許してしまった、と考えるのは。やはり邪推でしょうか。