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【短歌と和歌と、時々俳句】25 藪柑子

 長谷川櫂『日めくり 四季のうた』(中公新書 2010)は一年365日のそれぞれに「うた」を配して解説を加えている。「読売新聞」連載の「四季」をまとめたものだ。
 本日、12月27日の歌は藪柑子を詠む歌が紹介されている。

樹のうろの藪柑子にも実の一つ(飯田蛇笏)

 藪柑子が根付く程度のうろを抱えた樹。それなりに大きいはずだ。その樹は冬の風から藪柑子を守るように聳える。樹に守られた藪柑子はやがて小さな赤い実を結ぶ。まるで親と子と孫のよう。優しい組み合わせだ。

 この時期、藪柑子の赤い実は山野で目立つ。庭先にも植えられているかもしれない。だが飯田蛇笏の藪柑子は木のうろにひっそりと佇む。その有り様の対比を念頭に置いているのが「藪柑子にも」の「も」だろう。「こんなところにもいたのか」という飯田蛇笏の驚きが可愛らしい。


 短歌での藪柑子の歌をみてみよう。『短歌表現辞典 草樹花編』では山田あきが

藪柑子の朱の実のいのち霜柱にりりとしあればわれを寄らしむ(山田あき)

と歌う。山田は霜柱の白と対比される藪柑子の朱の美しさ、その存在感にいのちの充溢を見ている。上句の字余りはそのあふれだす生命力の表現に思える。
 『短歌表現辞典 草樹花編』では他に

雪雲のさけ目よりたつ風ありて藪柑子は赤き実を振る(長沢美津)
やぶこうじ、からたちばなの赤い実が鳥に食われてみたいと言えり(沖ななも)

も載る。これらも山田と同様に藪柑子の実の赤の存在感、美しさを歌う歌と見てよいだろう。
 
 古典ではどのように詠まれたのだろうか。小川晴彦は『古典文学植物誌』(學燈社 2002)で「古典文学において、山橘はもっぱらその赤い実の美しさが注目されてきた。」とした上で『万葉集』の

あしひきの山橘の色に出でよ語らひ継ぎて逢ふこともあらむ(669 春日王)

山橘(=藪柑子)のように思いの丈を見えるようにあらわしてごらんなさい。そんな語らいをするうちに、逢瀬を遂げることもあるかもしれませんよ

を皮切りに

わが恋をしのびかねてはあしひきの山橘の色に出でぬべし 

『古今和歌集』恋3・紀友則

深緑人に知られぬあしびきの山橘に繁るわが恋

西行『聞書集』

消残りの雪に合へ照るあしひきの山橘をつとに摘み来な

『万葉集』巻20・大伴家持

ふりにける卯月の今日の髪そぎは山橘の色も変はらず

『新撰六帖題和歌』第六帖・藤原知家

の歌を挙げ、「山橘の実は強い生命力の象徴であった。」と結ぶ。冬景色の中であまりにも鮮やかな藪柑子の赤。藪柑子はその美しさ、存在感に注目する詠み方が主であるのは間違いない。してみると藪柑子の赤の美しさ、そして生命力への視線は古典和歌と近代短歌で共有しているとみて良いだろう。

 飯田蛇笏の句に戻ろう。

樹のうろの藪柑子にも実の一つ

 この句に藪柑子の生命力を読み取るのは難しい。宝石のような扱いを受ける美しさにも属さない。飯田の藪柑子は密やかにそこにある。飯田にも俳句にも詳しくない僕はこれ以上論じることはできないけれど、あるいはこの藪柑子の慎ましやかな有り様は、飯田の発見した可愛らしさなのかもしれない。


「食べられる?」藪柑子の実指させる吾子にいつかの我重なりぬ(ぼく)


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