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悲観的な僕が、ポジティブな言葉を吟味する 2

 疑い深い僕は、勇気が出る言葉を素直に受け取ることはできない。世の中で耳にする明るい言葉を紹介し、疑ってツッコミをいれて、新しい解釈を考えてみる。

ケセラセラ

 明らかに日本語ではない。調べてみるとスペイン語らしい。「ラニーニャ」「エルニーニョ」に次いで、日本人が聞いたことがあるスペイン語かもしれない。
 ケセラセラは「なるようになる」という意味で、「明日は明日の風が吹く」「どうにでもなる」という似た言葉がある。定期試験の前日に「どうにでもなれ!」と言うと、本番までの時間がなくもうどうしようもない状況が連想される。同じ状況で「ケセラセラ!」と言っているのを聞いたことがないので、意味は似ているが使い方で違いがあるようだ。

 ケセラセラは、諦めの境地を表現している。もう自分でできることはなく、あらゆることは周囲の環境や自然の成り行きによって決まることを認め、そういう状況を受け入れている。ケセラセラという言葉は、いますべきことを何も教えてくれない。すべきことを求める時点で、体に無駄な力が入っている。何かを求めてはいけない。自分で運命や状況を変えることはできない。体の力を抜いて周囲に身を任せ、川に落ちた葉のように流れに逆らわず、どこかへ流れていく。
 前回「為せば成る」という言葉を扱った。何かを為すことで、何が成る。ケセラセラ、つまり「なるようになる」と言うためには、「なる」よりも前に何かを「為す」のが順番だ。行動を起こす前から「ケセラセラ」と言うのは、無理がある。
 自分のなかで納得いくまで取り組んだあとに、ケセラセラという状況がやってくる。ケセラセラは最後の切り札だ。やることをやってから訪れる諦めの境地である。この場合の諦めるには、放棄する、逃げ出すのような消極的なニュアンスはない。積極的な意味での、諦めであって、覚悟という言葉に近づく。

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当たり前だと思っていたことを疑うと、新しい発見があるかもしれない。繰り返しの毎日にスパイスを与えるエッセイ集

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