波乱だった過去【1・両親の離婚と幼稚園中退】
自己紹介を兼ねて
別ブログで綴っていた
壮絶と言われる私の生い立ちを
リニューアルして
noteでも綴っていきたいと思うので
ご興味ある方は是非お付き合いいただけたらと思います。
1973年2月
神奈川県の小田原に生れ落ちた私は
2歳まで小田原で
4歳まで横浜で
父と母・ひいおばあちゃん(母の祖母)と
4人で暮らしていた。
私はひとりっ子で
小田原に住んでいた2~3歳の頃は
保育園に通っていた。
いつもお迎えが一番最後のひとりで
夕暮れのもう薄暗い保育園の部屋で
保育士の先生とふたり
歌を唄いながら母が来るのを待っていた。
3〜4歳になった頃
家族で横浜に引っ越し
幼稚園に通い始める。
幼稚園には
すっごく意地悪な「愛子ちゃん」という女の子がいて
身体が小さかった私は
身体が大きい愛子ちゃんによくイジメられていた。
そんなことがあって
幼稚園はいい思い出も
いい感情もない。
家ではいつも父が遊んでくれて
ひいおばあちゃんも遊んでくれたが
母の記憶があまりない。
なぜならきっと
当時母は主婦ではなく
なぜか夜の仕事(水商売)をしていて
夜は父とひいおばあちゃんと
過ごすことが多かったからだ。
私はパパっ子で
父が帰って来る足音がするたび
毎日のように隠れんぼをしていた。
タンスの中やカーテンの裏に隠れて
「さおちゃん、どこだ〜〜〜?」と
自分で言っては
毎回父に探してもらうことが
楽しくて嬉しくてたまらなかった。
父は私を見つけると
必ず笑顔で抱き上げてキスしてくれる。
それが嬉しくて、毎日隠れていた。
そんな中で迎えた4歳の誕生日は
今でも映像でハッキリ覚えているくらい
幸せな時間だった。
父と母とひいおばあちゃんに囲まれて
鍵盤ハーモニカをプレゼントしてもらい
嬉しくて笑顔で吹きながら
鍵盤を叩いていた記憶が今でも残っている。
そのあとは
ご機嫌でピンクレディのレコードをかけ
みんなの前でUFOを唄って踊ってショータイム。
その日は
家族みんなが笑顔でお祝いしてくれた
私にとって最後の幸せな誕生日。
それから数日後のある夜
私はものすごい怒鳴り声と
ものすごい物音で目を覚ました。
音のする方に見に行くと
そこには父が立っていて
足元には母が倒れていた。
母の周りには
割れた鏡か?ガラスの破片か?
とにかく大量に割れた破片が散らばっていた。
子供ながらに
”これはパパがママにぶつけて割れたんだ”と
冷静にそれを見ていた。
そして記憶の場面は切り替わり
私は父の膝に座っている。
目の前のテーブルには
ウイスキーオールドのボトルとグラス。
その先に見える玄関で
母とひいおばあちゃんが
「行っちゃうよ!さおちゃん!
いいの?行っちゃうよ!」
と何度も言ってくる。
”なんかよくわからないけど、呼ばれてるから行かなくちゃ”
私は訳も分からず
父の膝から立ち上がり
深く考えずに
母たちについていった。
それが父との別れ
両親の離婚だった。
深夜だったか朝方か
私たちはタクシーで
横浜から
大田区の蒲田という街に向かった。
その街に着く頃には
空はすっかり明るくなっていた。
どうやら私は
蒲田に暮らす
祖父(母の父親)のもとに預けられるようだ。
「はじめまして、おじいちゃん!」
そう言うと、祖父は
「お父さんと呼べ!」
と初対面である孫の私に
鬼の形相でいきなり怒鳴りつけた。
いきなり怒鳴られたことにビックリして
私は子供ながらに混乱と動揺と恐怖を感じた。
そして何より私に衝撃を与えたのは
預けられた祖父の家。
表現のしようがないくらい
それはそれは猛烈なボロアパートに
祖父はひとりで住んでいた。
アパートの共同玄関の扉は木が腐り
閉まることはなく年中開けっぱなし。
その足元には
灰色に汚れた男性の靴が
足の踏み場もないくらい
大量に散乱している。
目の前の薄暗い階段を上がって
すぐの右側の部屋が
祖父の部屋。
鍵もなく
ガタガタと音のなる
木の扉をスライドして中に入ると
四畳半一間の祖父の部屋は
ごちゃごちゃと散らかっていて
コタツテーブルの上には
飲みかけの焼酎とグラス。
その向こうに
ずっと敷きっぱなしの薄汚れた布団がある。
窓にはヒビが入り
ジメっと湿気がこもる四畳半一間の部屋。
玄関もおトイレも共同で
もちろんお風呂なんてものはない。
今日からそこが私の家になってしまった。
楽しくはなかったが
幼稚園に通って
普通に横浜で暮らしていた生活が
まったく笑顔を見せない怖い顔をした祖父と
暗くて臭くて狭くて怖い部屋での生活に
ある日突然変わってしまった。
幼稚園を中退し
いきなり初めての街で
初めて会う怖い祖父に預けられ
そこから私の厳しい人生が始まった。