【雑記】私の共感力ー主観で同意してるわけじゃないー
こんにちは、こしぇるです!
今日は共感力について、ふと思ったことを書こうと思います。
こんな感じで、だいたいのサイトが出てくる。
みんなイメージしている共感って、後半の喜怒哀楽の感情に寄り添うって感じではないだろうか?
カウンセラーさんに共感力が特に高いと言われた私だけれど、この“喜怒哀楽“について寄り添うというのは、個人的に苦手な部類だと思っている。
昔難読症で本を壊滅的に読んでいなかったこともあり、人の感情に疎い青春時代を送っていたと思う。
私が得意とする共感力は、前半の他者の考えや意見にその通りだと感じる能力なのだろう。
カウンセリングをしていて、この私なりの共感力を発揮している時、ストレスに感じることがあると気づいた。
それと同時に妹や幼馴染と話しているときに、なぜストレスフリーなのかもわかった。
理由は、相手が無意識のうちに自分の考えや意見を押し付けているということだと思う。
これだけでは伝わらないので、もっと具体的に
私の共感力というものは、決して私も主観的に同じことを思っているから同意しているということではない。
相手の立場に立った時、その時の状況などを理解した上で、相手の立場からするとそういう思いに至るという点に同意をしている。
でも実際には、相手にとって私が同意したということは、同じことを主観的に思ってくれていると捉えられるのだ。
私の主観的な思いは無視され、謎の連帯感を押し付けられるということに、ストレスを感じるのだと気づいた。
私が長く付き合いのある人たちは、それがないのだ。
そうやって付き合っていく人を無意識のうちに見極めていたのかもしれない。
思えば、学生時代もそれが苦手だったのだと思う。
だから集団のスポーツでも、個人でできるポジションに自然といたのかもしれない。
この謎の連帯感があることにより、そういう人たちと一緒にいると、私は透明人間になっていくようだ。
それが嫌でもがいて、抜け出したくなる衝動に駆られるのかもしれない。
今そういう類の人たちと関わっていないということもあり、本当に楽なのだと思う。
自分という存在を保ち続けられる。
この角度から見ると、あまり人と接しないようなのがいいのだろうなぁ
今日は私の共感力について、ふと思ったことでした。
ではまた