Turidduの兵役
P.マスカーニの一幕オペラ
「カヴァレリア・ルスティカーナ」の話題。
兵役に行っていたというトゥリッドゥ、
村での決闘事件が起きる以前の彼は、
どこの軍隊に従軍しており、
どのように除隊・帰郷したのだろうか?
考えられる選択肢は2つ。
ひとつは、
フランチェスコ2世率いる
「ナポリ・シチリア王国軍」。
生まれ育った地域ということで
順当に考えられるのはここ。
トゥリッドゥはシチリア島の中の
Vizzini村の住民だった。
このナポリ・シチリア王国軍は
15万の正規軍に加えてスイス傭兵も雇い入れており
当時のイタリアでは一大勢力をなしていた。
だが、僅か千人余りでシチリアに上陸した
「英雄」ガリバルディの部隊に翻弄され、
連戦連敗の揚句、最後は国そのものが
サルデーニャ王国に併合されてしまうという憂き目に。
(当然ながら軍隊は解散)
いわば鳥羽伏見の戦いにおける幕府軍。
ここにいたのであれば、
生きて故郷に帰ることができただけでも幸運だったのかも。
もうひとつの可能性は
「英雄」ガリバルディの率いる
義勇軍「赤シャツ部隊」。
こちらはシチリアの各地にいた
シチリア王国に対する不満分子の
一人であったという可能性。
ナポリ・シチリア王国軍には従軍しなかったが、
ガリバルディのシチリア征服に迎合し、
彼の義勇軍に加わるというコース。
ジュゼッペ・カリバルディはカミッロ・カブールと並び
サルデーニャ王国の二枚看板であったのだが、
カブールに対する不信から王国軍の主導権を奪取すべく、
シチリア遠征を思いつく。
サルデーニャ王国軍としての正規の行動ではないので
気の合った仲間たちだけでシチリアに上陸し、
みごと征服してしまったのは前述の通り。
一般大衆からは英雄視されたが、
カブールとサルデーニャ国王エマヌエレ2世からは
危険人物としてマークされることに。
フライングしたガリバルディを征伐するため、
カブールとエマヌエレ2世の
「サルデーニャ王国正規軍」が動き出す。
獅子身中の虫を討つためならばと、
それまで反目していた法王とも手打ちを行い
ローマを通過するサルデーニャ王国軍。
あわや両軍衝突かと思われたが、
カリバルディは抵抗せず
軍権をサルデーニャ国王に返還して
自らは引退した。
もし、ここで彼が下手に抵抗していれば
鎌倉幕府に潰された義経や、
ニセ官軍として潰された
相楽総三の赤報隊と同じ運命が待っていたことだろう。
こちらの可能性の場合、
トゥリッドゥは勇んで義勇軍に参加したものの、
革命政府(サルデーニャ王国)そのものから疎まれ、
軍併合の後に厄介払いされたということに。
どちらのパターンも考えられるけど、
勇んで出征し死地をかいくぐってきた割に
報われない結末となるのはどちらも同じ。
虚無に陥った挙句、
昔の彼女との火遊びに血道を上げてしまうのも、
自暴自棄ゆえの行動だったのかも。
ちなみに当時のイタリアの各軍隊は、
徴兵制ではなく志願制がほとんどだったそうな。
※ ※ ※ ※ ※
気になったので、もう少しだけ調べてみた。
カターニア州の南に位置するVizziniという村は、
「カヴァレリア」の原作戯曲を書いた
ジョヴァンニ・ヴェルガの生まれ故郷であった。
町の歴史を紐解くと、
このVizziniの町はガリバルディ以前から
「炭焼党(Carbonaro)」という反政府組織の活動拠点であり、
ガリバルディのシチリア上陸時には町をあげてこれに呼応し、
赤シャツ隊(ガリバルディの私軍、もしくは義勇軍)に参加したそうだ。
(WikiおよびVizziniのcomuneのHPに街の歴史が載っていた。
うーむ、便利な世の中になったものである)
つまりは、町ぐるみで反ブルボン家だったのだろう。
(この「反ブルボン家」というキーワードも
探っていくととても面白いのだが、今回は割愛)
イタリアでは特に顕著だが、
町や地域単位で政治的意思表示をすることは
それほど珍しいことではない。
ギベリン(皇帝派)とグエルフィ(法王派)に別れて
相争った昔からの、ひとつの伝統でもあるのだろう。
イタリア人の政治談義好きというのも、
もしかしたらこのあたりに起因するのではなかろうか。
ということで、
最初に立てた二つの仮説のうち
後者がどうやら正解らしい。
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