人はなぜ現実を生きるのかー映画「インセプション」ー

お疲れ様です。

最近ずっとクリストファー・ノーランにゾッコンなので、今回は「インセプション」について書きたい。
長くなったので目次を今回は付けようと思う。

※注意事項!!
この先かなりのネタバレをするので観ていない人は絶対に観てください!
この作品は人類史に永遠に名前を残す作品です、一度観ると必ず強烈な感動を「植え付けられます」。



ストーリーの概要

さて、ノーラン作品は非常に難解で巧妙なものが多いが、「インセプション」は群を抜いて作り込まれたストーリーだ。
主人公のコブは他人の夢に潜入し、情報を盗み出すスペシャリスト。
しかし、彼はある事件をきっかけに自分の子どもと会うことができなくなっており、子どもに会える日が来ることを願いながら世界を転々と駆け回っていた。
そんな時、サイトーという男から、世界のエネルギー資源を牛耳る超巨大企業の社長の息子(ロバート)に自身の会社を潰すように仕向けるためのアイデアを「インセプション」(=植え込み)してほしいと依頼される。
さらに、依頼の報酬として子どもに再会させることを提示され、コブはその依頼を引き受ける。
こうして、コブはロバートに自分の会社を潰すというアイデアを埋め込むために、ロバートの潜在意識の中へと入っていくー。

魅力①ストーリーや設定の作り込み

この映画の凄さは、まずストーリーや設定の作り込みだ。
潜入した夢の中ではイメージしたことがそのまま起こるようになるが、あまりに突拍子もないイメージをしてしまうと潜入したターゲットの潜在意識から危険視されるリスクもあるため、慎重に行わなければならない。
また、夢の中では時間の流れが現実世界より遅く、夢から醒めるためには自殺するか「キック」と呼ばれる現実世界での強い刺激が必要となる。
そして、ターゲットであるロバートに自分の会社を潰すという考えを植え込むために、まず、ロバートと前社長である父親との関係を調べ、それを利用して少しずつ植え込みを行なっていったり、ロバートの更なる潜在意識へと踏み込むために夢の中で夢を見させてその夢に潜入し、さらにその夢の中でも夢を見させて潜入し…と幾層にも連なる夢を見させるなど、なんでこんな設定とシナリオを思いつくんだと驚愕させられる。
依頼を遂行するため、また、潜在意識の深層から無事に現実へ戻るためにコブと仲間たちが死力を尽くして闘う姿は常に緊張感が張り詰めており、観ていて常に手を握りしめてしまうほどだった。
こうした緊迫感と興奮、感動を精巧なシナリオで味わえるのがノーラン作品の魅力だ。

魅力②テーマ

そして、1番のこの映画の凄さはテーマ。
「夢」と「現実」をテーマとしていて、人はなぜ今自分が生きている現実を現実だと思っているのか、また、人はなぜ夢を見続けるのではなく現実を生きるのか、といった哲学的な問題が背景になっている。
コブが潜在意識へ潜入すると必ず亡くなったはずの妻(モル)が現れ、彼を妨害し始める。
そのことを仲間に追及され、コブは過去にモルと夢の中で数十年間も理想的な暮らしを送り、その後このまま夢の中では生きていけないことを感じたコブはモルに現実へ戻ることを提案するが、モルは戻ろうとはしなかったことを明かす。
また、彼女を現実へ戻すために彼女の夢へ再度潜入し、「ここは現実ではない」「夢から醒めるには死ぬしかない」という考えを植え込んだため無事にモルは夢から醒めた。
だが、モルは現実に戻った後も「ここは現実ではない」「現実へ戻るために死ななければならない」と思い込んでしまい、自殺してしまっていた。
コブはその罪の意識に苛まれており、そのせいで夢の中で自分が作り出した幻想のモルによる妨害を受けてしまうようになった。
さらに、コブは毎晩、自分の夢の中でモルや子どもたちと会い、子どもとは会えない現実をよそに、理想的な夢を見続けていた。
このように、妻が自殺し、子どもたちとも会えない「過酷な現実」と、以前のように妻や子どもたちと過ごせる「理想的な夢」という2項対立の中でコブは揺れ続けており、哲学的で机上の空論のようにも思えるテーマが人の人生を左右するリアルさを持って描かれるのである。

映画に関連する哲学的議論

学生時代、哲学の授業で「赤い薬と青い薬」「水槽の中の脳」という話について学んだことがある。
「赤い薬と青い薬」は映画「マトリックス」に出てくるもので、赤い薬を飲むと主人公がいる夢の世界から現実へと目覚めることができるが過酷な現実が待っており、青い薬を飲めばこのまま目覚めることなく安寧の暮らしを夢の中で続けることができる、このときあなたはどちらを選ぶかという問題だ。
また、「水槽の中の脳」とは、水槽の中に脳みそが入っており、その脳には電極が繋がれていて、電気刺激により脳は様々なイメージを見せられている。
これを脳のイメージの中からの視点で考えると、自分が実際に生きている世界は実は電気刺激によってイメージさせられており、自分が今いる現実は自分のイメージでしかないことになる、というものだ。
これらの問題は様々な哲学的文脈で議論されるものだが、「インセプション」の中でも明らかに重要な問題として取り上げられている。
映画の終盤、虚無へと落ちたコブがモルから「なぜあなたはここが現実ではないとわかるの?」「なぜ私と安寧の暮らしを送ることができる夢の世界ではなく、現実へと戻ろうとするの?」と問われる。
この問いかけは映画鑑賞者にとっても非常に悩ましいもので、自分が生きている世界は現実だと思うような感覚は確かに存在するし、安寧の夢の世界を選択したくなるがそれではいけない気も確かにする、だからこそ、モルの問いかけに苦しむコブの姿に共感し、感情を掻き立てられる。
こうして考えていくと本当にこの作品は凄いと感嘆させられる。
「赤い薬と青い薬」「水槽の中の脳」という議論は哲学的には形而上学的実在論(諸概念や事物は単に表象(イメージ)であるのか、それとも心の外に外在するものなのか、という議論)の文脈で語られる、いわゆる装置的な議論なのだが、これらの問題がコブという1人の人間に関わる重大な問題として描かれていく。
あまりの凄さにとにかく感嘆としか言いようのない感情が押し寄せるばかりだった。

哲学的テーマに対してこの映画が提示した答え

さらにノーランの凄いところは、これらの難解なテーマに対して一つの答えをはっきりと提示した点だ。
モルから「なぜあなたはここが現実ではないとわかるの?」「なぜ私と安寧の暮らしを送ることができる夢の世界ではなく、現実へと戻ろうとするの?」と問いかけられたコブは一つの答えを述べる。

「罪の意識だ。
 罪の意識こそが俺に真実を突きつける。」

この言葉を聴いた瞬間、あまりの感動と衝撃に涙を流してしまった。
「赤い薬と青い薬」「水槽の中の脳」という問題を初めて学んだ大学時代、教授は授業の中で「この問題において『夢から目覚めよう』とする人の理由は何なのか議論しよう」と言ったが、僕にはそれを考えることは非常にナンセンスに感じた。
なぜなら、先に述べたようにこれらの問題は哲学的文脈の中で装置的に議論されるものだし、たとえ自分が生きている現実が夢であっても、また、仮にこの世界が夢だったとしてそこから目覚めるかどうかの選択を迫られたとしても、どうしたいかについては自由に考えても何の支障もきたさないからだ。
「そんなの自由に考えればいいだけだ、わざわざ議論することじゃない」と思っていたのだが、この映画では鮮やかなリアリティを持って「なぜ現実に戻るのか」「なぜここは夢だとわかるのか」という問題が提起される。
妻が自殺し、子どもたちを取り残してきた現実があり、自殺した妻と永遠に暮らすことのできる夢がある、そして、自分にとって過酷な前者こそが現実だという確かな実感があり、前者の世界へ戻らなければならないと思っている。
こうした自分の考えに「なぜ」を突きつけられ、コブは悩み、苦しみ、もがき、そして、「罪の意識こそが現実であることの証明であり、自分にとっての真実を開示するものだから自分はそれを望む」と答えたのだと僕は解釈した。
この世界が自分が見ている夢だとしたら、また、自分が夢の世界で生きることを選択したとしたら、そのとき罪の意識などといった「過酷さ」とは存在するのだろうか。
そして、仮に夢の世界でも「過酷さ」があるとしたとき、自分に対してその「過酷さ」が教えてくれる揺るぎない「真実」はどのように自分にイメージされるのか。
僕が言いたいのは、自分のイメージ通りに形成される夢の世界では自分にとって過酷なものが生成されることは考えづらく(わざわざ自分が大変な思いをする夢をイメージする人は少ないだろうと思われるため)、また、生成されたとしてもその過酷さと直面することで初めて得られる学びや事実といった「真実」を自分がイメージすることはできないはずなのである。
つまり、コブの言葉は「『過酷さ』自体が現実であることの証明であり、その『過酷さ』によって得られる『真実』があるから現実で生きることを選択する」と解釈できる。
僕はこのコブの言葉はひとつの真実だと思うし、様々な苦しみや葛藤を乗り越えてコブがこの結論を出したことに感情が掻き回され、何とも言えない感動となって涙腺に押し寄せてしまった。

ラストシーンの回り続けるコマについて

最後に、映画のラストシーンにも触れておきたい。
無事に子どもたちと再会を果たすコブ、だが、彼が回したコマがグラグラと揺れはするものの回り続ける、そして止まらないまま映画は終わる。
このコマは今自分がいる世界が夢かどうかを判別するための「トーテム」であり、夢の中では永遠に回り続けるが現実では自然に止まる。
ラストシーンでコマが止まるのかどうか微妙な動きを見せたまま終わったのは、明らかに「水槽の中の脳」を意識している。
つまり、この映画自体はじめから最後まで全てコブが見ている夢であり、様々な困難を乗り越えて子どもたちと再会できたというイメージをコブが作り出して見ているだけだという可能性を示唆している。
だが、僕はこの可能性を強く否定したいと思う。
なぜなら、「罪の意識こそが俺に真実を突きつける」というこの映画の難解で深淵なるテーマに対するひとつの答えをコブは導き出した、それが出来たのなら、彼は必ずその「過酷さ」を受け入れてきっと現実へと向かうはずだからである。
コブを強く信じたい、そう願わせるだけの光を彼は自ら探し出したのだ。

めちゃくちゃ長い文章になってしまった。
また、正直ここまで書いていて自分でも今何を考えているのかがわからなくなることが多々あった。
でも、この映画によって掻き立てられた感動や思いを形にできてよかったと思う。
難解かつ抽象的で重要な問題に対して明確なイメージと答えを提示する、これを可能にすることこそがノーラン作品の凄さだ。

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