エイリアンになったいま
人生に大切なことは、みんな漫画に教わった、というひとは多いはず。
そして、漫画をきっかけに人生の決断をしたひとだって、きっとたくさんいるはずだ。
漫画月刊誌『LaLa』に1980年12月号から1984年7月号にかけて連載されていた「エイリアン通り」は、私にとってそんな「人生を変えた漫画」だ。
自分の出自に複雑な思いを抱える主人公が、あえて未知の土地アメリカに飛び出し、同じようにアメリカに外国人としてやってきた仲間たちと暮らす日々を描いている。
ゆえに、「エイリアン」たちが暮らす通り。
その頃、日本の空港の入国審査にかかれていた「外国人」の英語表記は「Alien(エイリアン)」だった。確かに「自分たちの場所とは別の場所の人」という意味ではあるが、映画の『エイリアン』のヒットもあって、むしろ異質のもの、異型のものという意味が強くなって、使われなくなったようだ。
当時、私は小学生。
周囲はみんな『りぼん』や『なかよし』を読んでいるなかで、「ガラスの仮面」や「パタリロ!」など『花とゆめ』の漫画を愛読していた姉の影響から、私はこの漫画に出会い夢中になった。
受験生だというのに、毎月『Lala』を買い、読者プレゼントに応募し、下敷きに切り抜きをいれていた。
そして、いつかアメリカの地で留学生生活をおくるんだと心に決めた。
それからずっと、アメリカに憧れ、なにより「エイリアン通り」にでてくるアメリカの大学生活に憧れていた。
大学では留学できなかったけれど、アメリカの大学院にいった。
漫画のようなカッコいい同級生もいなかったし、
読まなくてはならない教科書の量と、
書かなくてはいけないペーパーの量と、
生活費を稼ぐためのキャンパスでの仕事でひいひいいうばかりで。
漫画の生活とは大違いだった。
当時買った文庫本の漫画は、いまでもロンドンの我が家の書棚に入っている。
扁桃炎で熱を出したり、私はなんでこんなところで暮らしてんだろと塞いだときには、ベッドの横に積み上げて一気に読み返す。
年上だった登場人物たちのすべてが年下になってしまった。
彼らのいろんな感情の揺れや動きは、自分が歳を重ねる毎に、分かるようになっていった気がする。
私がいつも思い起こすのは、この最終巻の下りだ。
恋愛でも冒険でもなく。人間というものについてのこのやりとり。
主人公シャールは父親の国の権力争いから身を守るために、たくさんの自由を我慢してきた王子、という設定である。
その彼が、ジャーナリスト志望で正義感あふれるジェラールの「正論」に対し、本人の気持ち次第だとこたえる。
自分がエイリアン(異邦人)になった今。自由でないこと、あきらかに不自由なことはたくさんある。
あるけれど、やっぱり、自分で選んで飛び出してきた以上、それは自分の気の持ちようなんだとシャール同様に思っている。
同時に、テレビに映されている、
自由を求めて船で極寒の海を渡ろうとするひとたちや、
自分たちのふるさとに爆弾の雨を受けているひとたちには、
やはりジェラール同様、憤りを感じる。
私が海外に出るきっかけとして背中を押してくれただけでなく。
今なお、深く考えさせてくれる「エイリアン通り」。
出会えてよかった漫画のひとつだ。