アコースティック・カフェ
ミネソタ州のミネアポリス=セントポール国際空港。
そこからインターステート94号線をまっすぐ。
州境のミシシッピ川を越えたところに、小さな大学町がある。
そのメインストリートにあるのが、アコースティック・カフェ。
ドアを開けると、目の前には手書きのメニュー。
サンドイッチや、スープ。
コーヒーやホットチョコレート。
キャロットケーキやクリスピー・バー。
客席の真ん中には大きな暖炉がしつらえて合って、極寒になるこの町の冬には、カンカンに火がおこされたこの暖炉の前の席が一等席になる。
1999年。
私は、学校の帰り、毎日のようにこのカフェに立ち寄ってコーヒーを買い、暖炉の前で日本にあてて手紙を書いた。
もちろんまだスマホなんてなく。
ぴょっと縦長の携帯電話からアンテナを伸ばしていた時代。
パソコンでの電子メールがようやく一般のひとに普及し始めたころ。
WiFiなんてなくて、LANケーブルで繋がってなくちゃだめだった。
だから、私は手紙をたくさん書いた。
だした手紙もあるし、書いた後、だせなかった手紙もいっぱいあった。
♢
1990年の夏、世の中に日本語教師という仕事があるのだと知った私は、大学で日本語学と、日本語教授法を取ることにした。
そして、いつかアメリカの大学院にいって言語学をさらに勉強しよう、そう思っていた。
留学の資金を親に頼るわけにいかなかった。でも、応募した奨学金の面接では「ご両親に相談なさい」といわれて落ちた。
だから、まずはお金を貯めて大学院を目指そう、と就職した。
ようやく資金がたまり、願書をそろえ、ウィスコンシン大学から入学許可の手紙がきたとき、同時に、ダメモトで応募していた日本語教師派遣のプログラムに合格した。
派遣されたのは、小さな町のハイスクールとミドルスクール。
もともと在日米軍にいて、その滞在中に日本語を身につけたというアメリカ人男性教師をメンターとして、日本語を教えることになった。
いや、教えることにはならなかった。
「私の威厳が保てなくなるから、あなたは発音のデモをし、生徒に繰り返させるだけでいい。私が間違ったとしても、ぜったいに生徒の前では指摘しないでください。権威がなくなります」
最初の学期は、黒板の前に立って単語カードをめくりながら発音するだけ。
指定された翌日用のプリントをコピーしておくだけ。
窓のそとにひろがる大豆畑の地平線と、その奥に沈んでいく夕陽をみながら
誰もいなくなった教室のなかで、あいうえおの書かれたプリントに赤ペンをいれていたら、涙が流れた。
東京での仕事、「おまえが男だったら、もっといろんな仕事を振れるのにな」そう課長代理にいわれてたこと。
後輩の指導も任されて、チームの雰囲気をつくりだせてきてたこと。
あれをみんな捨てて。
大学院の入学も保留して。
高校生からの夢だからと思ってここまできたのに。
コピー取るために、きたんじゃないのに。
ハイスクールからの帰り道。
そんなときはアコースティック・カフェに立ち寄った。
派遣プログラムの決まりでその学区内でホームステイをしていた一家とは、仲は悪くなかったけれど、ふところに入りこんだ感じでもなかった。
すぐ隣の州にいる高校時代からのホストファミリーと、その家の双子たちとあまりに仲が良かったのが逆効果だったのか。
20代後半になってするホームステイだということが、お互いのためらいや気遣いの壁になっていたかもしれない。
食事の好みや宗教観の違いも大きかった。
兼業農家で牛を飼い、大豆とコーンを広大な農地で生産していた彼らは敬虔なクリスチャンで、毎週日曜日には教会へ通っていて、一緒に行こうととても熱心に誘われた。
金曜日には肉を食べず、かといって魚もマクドナルドのフィレオフィッシュくらいしか食べないから、金曜の夜はポップコーンだけということがほとんどだった。
飲酒はクリスマスやサンクスギビングのようなイベントのときに甘いジンファンデルをグラスに一杯。
普段はコーラかスプライト、あるいは牛乳。
ミネソタの慣れ親しんだ「家族」とは、いろんなことが異なっていた。
もちろん、それも経験ではあるとはわかっている。
けれど、以前の成功体験がなまじあるぶん、厳しかった。
双子のひとり、ジェニーは、初めてその家族のいえまで私を送ってくれた日、車のウインドウを開けてこういった。
「ちょっと変わった家族っぽいよね。何かあったら、ミシシッピ川を越えて、うちにくるのよ。分かってるとは思うけど、遠慮はいらないんだからね。ガレージの暗証番号は私たちの誕生日になってるから」
でも、お世話になっているという意識があったから、そんな頻繁にかつてのホストファミリーの家にいくなんてはばかられた。
かといって、仕事帰りに落ち込んだまま、まっすぐ帰るのもつらかった。
真っ赤な目で帰りたくなかった。
小さなベッドルームにこもって心配させるわけにもいかなかった。
そんなとき、アコースティック・カフェが、私の逃げ場になってくれた。
「あんなに将来は日本語の先生になるんだって思ってきて。留学するからってTOEFLも受け続け、大学のGPAも維持するよう頑張って。でも、なんだか、なにがしたいのかわからなくなっちゃった」
大きなマグカップになみなみと注がれたコーヒーを手に、暖炉の前のテーブルに陣取って。
日本にいる友達に、ルーズリーフの両面をつかってぴっちりと手紙を書いた。
勢いでそのまま投函する日もあれば、あまりにネガティブ過ぎて、忍びなくなってカフェのごみ箱に捨てた日もあった。
「日本語の先生にならないなら、派遣プログラムを来年も延長するのも意味ないし。言語学で大学院にいくのも違う気がするし。
じゃ、日本に帰るのかっていっても。これで尻尾巻いて帰ったら、たった1年ぽっちアメリカにいましたなんて自慢にもならないから、仕事だって見つからないだろうし」
♢
そんな少し投げやりな気持ちもあったからかもしれない。
ある日の教室で、メンターが、生徒からの質問にあきらかに間違った回答をした。
私は云われていた通り、なにも声にださなかった。
でも、たぶん、生徒たちの目にわかるくらい、表情に出していたのだろう。教室は少しガヤガヤした。
彼は、教科書を激しく机に打ちつけて、静かにしろといい、そこでクラスが終わった。
「間違いを指摘するなといったはずだ」
放課後、彼は真っ赤になりながら、黒板の前に立っていた私にむかって、教室の机を押し出した。
どこまでの意図があったかはわからない。
でも、ガタンと倒れた机と椅子がドミノ倒しになって、私は黒板と押し寄せた机との間にはさまれ身動きができなくなった。
気まずくなったからだろう。
そのまま彼は、教室のドアを激しく閉めて出ていった。
涙がぽろぽろこぼれた。
机がぶつかったお腹も痛かったけど、それより、こんなところで自分は何をしてるんだろうと思うと情けなかった。
今ごろ、東京では、後輩が私の後任でやってきた新入社員に仕事をてきぱき教えているのかな。
あのコンピュータ会社の契約はうまく更改できたのかな。
忙しくて、充実していた東京の日々が、窓の外の大豆畑をみていると、本当に別の星のことのように思われた。
その日もアコースティック・カフェにいった。
確か、その日はカフェモカを頼んだ。
甘いものが必要だったから。
♢
「今年、初めてシニアの4人が日本語を履修し続けると申し込みをしたから、最上級のレベル4のクラスができることになった。それを教えてほしい」
次の学期にあたって、しぶしぶといった感じで、メンターの教師が私にそう告げた。
教案も、教材も、テストも、すべて自分が作る。
ようやく。
ようやく「日本語を教えられる」んだ。
その日から、アコースティック・カフェに行く頻度が減った。
毎日、メンターのための仕事や採点作業は変わらないまま、さらに翌日の授業の準備をしなくてはならなかったから。
ひとりで教室に残り、作業をしながら、でも、私は充実した気持ちになっていた。
レベル4の生徒たちは、みなとても賢く、かといって優等生過ぎるわけでもないとても楽しいメンバーだった。
当時流行っていたGLAYやX Japanの曲を使って、その授業の文法が含まれた歌詞を聴き取ったりと、できるだけいろんなことを試した。
「日本語はレアだから、大学進学のためにもレベル4までやっておきたかったけど、あの先生の日本語はたぶんもうオレたちより下でしょ。彼でちゃんと教えられるのかなって心配してたんだよ。こうやって生の日本の情報を使いながら勉強ができるとは思ってなかった。ありがとう」
生意気ざかりのシニアたち、とばかり思っていたのに、卒業直前には、そういってくれた。
そして、「No Violence!」と書かれた下に、ナイフを差し出すニンゲンをマジックで手描きしたTシャツをプレゼントしてくれた。
「横暴な雰囲気の教室からも離れられたしね」
♢
生徒たちは本当にかわいかった。
でも、そのころにはもう、日本語教師を目指す気持ちは失っていた。
高校生の時からずっと将来の目標だと思っていたのに。
そのための大学の専攻だったのに。
そのために仕事を辞めたのに。
学期を迎えるたびに、新しい生徒がやってくる教室のなかで、気づいたのだ。
もし、自分が教師をすることになったら、教室の中で私一人が老いていき、同じ年齢の子供たちがどんどん入れ替わっていくことに。
そんな中で、自暴自棄にならず、つねに教案の改善や自分のアップデートを忘れない先生でいられるのか。それを楽しめるのか。
私には自信が持てなくなっていた。
アコースティック・カフェからそう手紙を書いて相談した、昔のボーイフレンドたちが、アドバイスをしてくれた。
「だったら、せっかく取ったTOEFLのスコアなんだし、GREからGMATに切り替えて、MBAを取ったら」
♢
翌日の教案を作り、テストの採点をし、メンターの翌日用の準備も終わらせたあと、私は町の図書館で勉強するようになった。
週に何回かは、コミュニティがモン族の難民に提供している無料の英語教室にいって、エッセイなどの指導をしてもらうようにもなった。
上智への留学経験があるナンシーというカウンセラーが、ミドルスクールにいたことも大きかった。
「私も、トーキョーになじむまでいろいろあったもの。困ったことがあったらなんでもいって」
ナンシーの家と、ミシシッピ川を越えたジェニーの家が、私の心のシェルターになった。
ナンシーを通じて仲良くなったミドルスクールの先生仲間たちが、英語教室の情報や、近隣の大学院の評判や学費についてたくさん教えてくれた。
メンターはハイスクールに籍をおいていたし、どちらの教員室にもいくことなく日本語の教室に籠っていたから、私がミドルスクールの先生仲間にいれてもらっていたことには気づいてすらいなかっただろう。
そして、大学院の受験準備をしていることも。
MBAコースに合格し、大学院に進学すると伝えたとき、翌年も私がその町に残って一緒に教えると信じ込んでいたメンターは、驚きと憤慨と戸惑いをまぜこぜにした表情をした。
派遣プログラムの本部に、投げられた机のレポートをしていたので、彼のクラスには翌年の助成金がでないことも、派遣もなくなることも、とっくに知っていたけれど、私は何もいわなかった。
♢
もしドラマのようにタイムマシンのバスに乗るとしたら。
あのときアコースティック・カフェの暖炉の前で、高校生から抱いてきた十年来の夢をあきらめ、ぽかんとこころに虚ろに空いた穴しかなかった私に声をかけるとしたら。
「大丈夫だよ。その涙も、汗も、みんなちゃんとつながっていくよ」
といってやりたい。
その後、大学院で授業になかなかついていけず、毎日のように図書館の閉館時間まで教科書を読み、課題を終わらせようと必死だったときも。
911でジョブフェアが次々開催中止になりアメリカで仕事は見つけられないと悟ったときも。
日本に帰ってきて充実した仕事をしていた会社が突然買収され壁にぶち当たったときも。
ロンドンに来ていきなりリストラ対象になってビザを失うかもしれなくなったときも。
「なんとかなる。いや、なんとかする。
この時のことを、いつかぜったい笑って振り返る日が来る。
あのアコースティック・カフェの絶望だって、永遠には続かなかったんだから」
と信じて、立ち向かうことができた。不思議なことに、そこにはなぜか自信があった。
♢
あのとき言語学の世界に残っていたら。
そもそも派遣プログラムにいかず、
高校からのボーイフレンドとそのまま日本で一緒にいたら。
アメリカから日本に戻らなかったら。
当時のボーイフレンドが勧めるまま日本食レストランでウェイトレスでもしながら残ることにしていたら。
ロンドン転勤のオファーを断っていたら。
当時のボーイフレンドとそのまま東京とサンフランシスコで遠距離恋愛を続けていたら。
ユーミンは、選ばなかったから失うのだというけれど。
選ばなかった未来の枝葉は、妄想の中であらゆる方向に茂っているけれど。
でも、選ばなかったから失ったもの、それは、剪定し落とされた枝なのだ。
落としたからこそ、残した枝に栄養がゆきわたり、美しく花を咲かせているんだもの。
いや、選んで残した枝こそ「ベスト」だったと、そう肯定できるよう、そのあとを生きてきたからだ。
そんなことを想っていたら、鰻水さんがこんなエントリを書いていらした。
「お腹の底から湧いてくる謎の力」
私も、その謎の力がわかる気がする。
この鰻水さんのエントリから、どうかみなさんのなかにも「謎の力」が生まれてきますように。
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