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青空
高校時代。
ザビ、と生徒たちのあいだで呼ばれている世界史の先生がいた。
ザビはザビエルの略。
それは、教科書に載っていたフランシスコ・ザビエルの髪型と似ていたから。
彼の試験はいつも、小論文を書くたった1問だけだった気がする。
受験をしなくてよかったから、世界史といっても、まったく年号なんか覚えなかった。
♢
私は附属校で育った。
高校三年のとき、どの学部に行くべきか決められずに悩んでいた。
何度も志望学部をころころと変える私に、担任はしびれをきらし、私を呼び出した。
「学年順位からいったら、あなたは希望するどの学部にもいける。でも、だからこそ、あなたが希望を変えるたびに、ギリギリの同級生が毎回胃を痛めることになるのよ」
そう彼女は私を諌めるようにいった。
でも、私はいったいなにを大学で勉強するべきなのかが本当に分からなかったのだ。
どこに進学したくなっても大丈夫なようにと、順位をよくするために試験勉強をしていたのに。
いざ選択のタイミングになったら、よしこれを学ぶぞという何かがみえてこなかった。
英語は好きだけれど、英文科じゃないことは分かっていた。
最難関の学科へ行くことはできるけど、関心はない。
私はどんなことを深掘りしたいんだろう。
私はなにをこの先したいんだろう。
担任は、私がどんな将来を望んでいるか、そのためにはどの学部に行くべきか話すのではなく、私よりも順位が下の誰かのことを思いやってとっとと選べという。
そんな「進路指導」がまったく腑に落ちなかった。
きっとそれは顔に出ていたのだろう。担任のすぐ横のデスクにいたザビがいった。
「おまえみたいに、通知表に適当に10と9とが並んでいる生徒が一番進路相談に困る。△△みたいに体育と世界史だけが10だったりすれば絞りやすい。が、おまえは違う。だから、自分の強みはすべてがカバーできることだとわかったうえで、おまえの心が躍るものは何かを探すために大学にいくんだと思えばいい。人生なんて長い道のりだ。ここで違ったって大丈夫だ」
♢
でも、進路を悩む気持ちはどんどん私の中で深くなっていった。
そのまま附属の大学に上がるか、受験して外にでるか。
当時つき合っていたボーイフレンドは東大をめざしていた。
附属はいいよな、といいつつも、模試で上位に食い込めたかどうか、どの講座を取るか、まるで戦いに行く戦士のようにアドレナリンを放出している姿が、わたしには新鮮だった。
それに影響されたのかもしれない。
外の世界に出てみるのも選択肢かな、と思い始めたのは、高校3年の夏の終わりのことだった。
秋になって、試しにと、こっそり模試を受けに行った。
お茶の水の駅につき、文庫本とシャーペンの入ったポシェットを下げて会場に入ると、周囲はみな大きなカバンから出した参考書に目をやっていた。
大学コード一覧の載った電話帳のようなものを渡され、戸惑いながらパラパラとページを繰って、世の中に、こんなにもたくさんの大学が、学部が、存在しているということに驚いた。
周りの若者たちは、みな、一覧表になど目もやらず、さっさと第三希望までコードを埋めている。
「私は、試験の前に、この人達の熱に負けている」
そう思った。
模試のことは親には内緒だった。
受験料はバイト代から払った。
親が、受験には反対するだろうと予想はついていたから。
だというのに、予備校から親あてに電話がかかってきてしまったと知ったのは、ある日、帰宅した私に、母が怖い表情で「早く上にいきなさい。お父さんが話があるから」といったからだ。
どこの予備校にも通っていなかったので、学費免除の特待生にならないかという勧誘だったらしい。
「いったい何を考えてるんだ。予備校?模試?大学受験したいだなんてまったく初耳だぞ」
模試の会場で、受験という膨大なエネルギーがいるものに勝ち抜けるわけがないと思い知った私は、「漠然とした将来の選択肢に対する不安みたいなものがあって、模試を受けに行っただけだ」と父に説明した。
「まったく。なんのために附属の学校に高い学費を払ってきたと思っているんだ」
父は怒った。
ボーイフレンドも、そのまま上がれるのになんでわざわざ、という。
みんな、今いるレールでいいじゃないかといってくる。
でも、あのときの自分には分岐点で立ちすくみ、迷う、そんな右往左往がどうしても必要だった。
そうして私は、
やっぱり日本語をきちんと学ぼう
と、国文科に内部進学することにした。
♢
卒業間近の世界史の授業。
特定の話題そのものはおぼえていないのだが、宗教にせよ国境にせよ、多くの歴史的イベントには覇権を狙う気持ちや拡大思考の対立やせめぎ合いがあるということがすとんと腹に落ちてきた。
ザビが、年号を問うような試験ではなく、いつも「流れ」を書かせていたことの意味が。
歴史とは、すべてのイベントが連鎖しつながっているものであり、ピンポイントに年号を覚えるものではないと言いたかったのだということが、分かったのだ。
「先生、ずっと言っていた、歴史はすべて繋がっているということがわかった気がします。最後のテストは『なぜ歴史を学ぶのか』にしてください」
高校最後の期末試験では問題は二つのうち選択。
その通りの問題がだされていた。
私はおもいきり筆を走らせた。
「先祖や土地と繋がって生きていた時代は、人生の節々で数世代先のことを考える瞬間があったことだろう。」
あるnoteをみながらふと思っていた。
私たちが「昔起こったこと」を学ぶのは、
それがたとえ、自分の「今」には陳腐化した情報のように思えていても、
それを飛び越えた真理のようなものが、地下水のように流れているからなのだ。
その流れは、自分を越えて、「先に」さらに流れていく。
同時に、過去からなにかを学んだとしても、でも、そこから得た教訓はさておいて、やっぱり人間は自分自身の時代を右往左往、煩悶せずにはいられない。
♢
あの頃のんびりとした女子高生たちに歴史を教えていたザビと、なんとなく受け取っていた当時の自分の関係は、今の私と少しだけ回るようになってきたうちのチームにつながるかもしれない。
年度初めの人事啓発プランを、それぞれのメンバーと話しながら、そんなことを感じていた。
ただ経験を積んでいくことと、キャリアを形成しようと意識することの違い。
いい管理職になることと、深い専門職になることの違い。
リーダーとフォロワー。
自分が通り過ぎてきたことを踏まえて、よかれと思って話をしても、受け手自身が右往左往し、そうかとハラオチする瞬間を迎えないと、自分のものにはならないんだなあ。
♢
ようやく今の会社に移って1年が経つ。
転職して数か月の間に、上司を含めたチームの半分がいなくなるという荒波のなか、残された数名の若手イギリス人達。
懐疑心だらけだった彼らと、その後チームの構成や役割をすべて仕切り直しして、私が採用したメンバー達。
新規採用者はすべて非イギリス人。彼らが英語を外国語として話すこともあってか、お互いの差異ばかりに目がいっている傾向もあった。
けれど、粉っぽかったパサパサのパンの種がだんだん手の中でしっとりまとまってくるように、チームが一つになり始めてきた感触が、今日は、ある。
なんとなくチームの連帯感みたいなものが。
♢
ふと気づけば、あのときのザビの歳を、私はとっくに越えている。
自分がいつまでいまの会社にいるのか、そもそもいつまで働き続けるのかはわからない。
仕事にも収入にも役職にも、どんどんと執着がなくなってきている昨今。
去年、入社1日目で、自分を採用した上司が辞意表明という笑えない展開で、深入りする前に去るべきか真剣に悩んだ。
でも、とどまってチームの立て直しをしようと思ったのは、「ふと、数世代先のことを考える瞬間」が私にもやってきたからだったかもしれない。
職業人として経験してきた結果を、どこかに残したくなったからかもしれない。
「ああ、そうか。なんかこの前アドバイスされたことが今つながりました」
いちばん手がかかっていたイギリス人の若者に面談でそういわれて。
少し嬉しくなった。
まあ、また来週にはとっ散らかるのかもしれないけれど。
でもこの週末くらいは、今日のロンドンの青空と同じように、からりとポジティブさを保っておきたい。
祝賀ムードのこの週末くらいは。
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![ころのすけ](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/83782340/profile_cd293878dc7ba988f0dbcd0bc48102f6.png?width=600&crop=1:1,smart)