俺の毎日 天草編 倉岳ダウンヒル
額から流れ出る汗で目が痛い。足には乳酸が溜まってきた。それでも俺はバイク(自転車のロードレーサー)で山を登り続けていた。
「おもったより手強い」
想像より急登であった。トライアスロンの試合の翌日だったこともあり、
疲労が抜けきってないのだろう。何時もよりギア落として登りつづけた。
流石にふらつきはしなかったが、ようやく頂上の駐車場へ到着した。
ここは天草の倉岳、眼下に天草の海が広がっている。
天草の海はインディゴブルー、空はスカイブルー、綺麗だった。
そんな美しい景色を見ていても、俺は事務所のある五反田の街を思いだした。「戻りたくない、仕事したくない」これが今の気持ちだった。
天草トライアスロン
ここは熊本の天草、この地で、初めてオリンピックスタイルのトライアスロンが開催された。日本初だ。トライアスロン連盟の名誉会長である長嶋茂雄元監督もセレモニーに出席した。
トライアスロンの黎明期において記念となる大会だった。俺はここで一発名を上げたかった。
嵐の中、泳ぎ、バイクに乗り、走ったが
バイクで転倒し、凡庸なタイムに終わってしまった。
東京から同行したメンバーは仕事の関係で、その日の夜、飛行機で東京へ戻っていった。
「イケはどうするの」という友達の問いに、
「後、2,3日ここで遊んでいく」と答えていた。
東京の思い出
そして今、倉岳にいる。
駐車場にはトイレと飲み物の自販機があった。糖分を欲していたので、缶コーラを買った。
10月初旬とは言え、まだ暑い日々が続いている。汗でびっしょりだが、体が冷えることはないだろう。
座り込むと運動状態のスイッチが切れるので、立ったままコーラを飲む。
それにしても、こんな所で五反田の事務所を思いだすとは、俺もどうかしている。
ーーー五反田事務所
笑顔だが目の笑ってない課長が言う
「君、スポーツもいいけど、怪我には気をつけてください」
そう、ただのスポーツだ。なんと曖昧な表現だろうか。
俺は、トライアスロンをやっていることを会社で話たことがない。
話し、その競技内容を知れば、おそらく上司はいい顔をしないだろう。
実業団の選手でもない社員が、会社を休んで競技をする。そんなことが容認されるスポーツは野球、ラグビー、陸上くらいだった。(1985年当時)
トライアスロンなどは際物扱いされるのが落ちだ。
不和
俺は20代に人生をかけてモトクロスレースをやっていた。そして挫折した。ついでに骨折(大怪我)もしている。その後遺症からリハビリして、ようやく復帰した時、俺には何もなかった。
そして何もない俺の前に現れたのがトライアスロンだった。
30才、独身、彼女なし、給料の安い総合電機メーカーの技術屋だ。態度の悪い俺は直ぐに上司に嫌われて他の部署へ飛ばされる。今いる職場は3つ目となる。
そんな俺はサラリーマンとして生きていく事にウンザリしていた。
「このままここに住んじまうか」不穏な考えしか頭に浮かばない。
邂逅
風に秋の匂いが混じっていた。それでも天草はまだ夏だ。
腹が減ったし、街に戻って寿司でも食うか、そんなこと思っていると、下からエンジン音が聞こえてきた。4サイクル単気筒のオフロードバイクの音だ。
オフロードバイクが駐車場へ現れた。林道ツーリングでもしているのだろう。ブーツ、モトパンと完全武装だった。スコットのフェースガードとゴーグルで顔は見えない。
オフロードバイクは思ったとおりホンダXL250だった。色は赤だった。ホンダレッド。俺の色だった。
バイクは俺に近づいてきた、目の前で止まる。
「ねぇ、悪いけど、100円貸してくれない」
「えっ」なんと女のライダーだった。
突然、何を言うのだろうと思ったけど、断る理由もない。俺は察して、
「いいよ買ってあげる。コーラでいい」と言う。
「ありがとう、助かったわ、財布を忘れてしまったの」
「だったら奢るよ」
缶コーラを買って、振り返ると女はオフロードバイクから降りて、ゴーグルとフェースガードを外していた。
俺はその顔を見て缶コーラを落としそうになった。
「お前・・」その女はヨウコだった。
「奇遇ねぇ、こんな場所で会うなんて」笑っている。
俺は缶コーラを分からないように振ってヨウコに渡した。
ヨウコが顔の前でプルトップを引くと、コーラーが噴き出した。
「きゃー、ふざけないでよ!」
倉岳ダウンヒル
少しの間、天草に来てからの話をしたが、今の仕事や住んでいる場所は、ははぐらかされた。
「俺、そろそろ帰るよ」
ライト装備を持ってないので、明るい内にホテルへ戻りたい。ヨウコはその言葉を聞くと少し間をおいて、ある提案をした。
「だったら競争しない。倉岳ダウンヒル、私が勝ったらどうしようかなぁ、あなたが夕食を奢る。どう?」
「それさぁ俺が負けるのが前提だろう。じゃぁ俺が勝ったらどうする?」
「そうねぇ、全ての疑問に答える」不平等な条件だ。でもいいや、そんな遊びにはつき合う。
「OK、やろう、ハンディを少しくれ、俺は人力だ」
「5分でどう」
おもった通りだ。ヨウコは知らない。自転車のバイク(ロードレーサー)下りはエンジン付きのバイクと変わらない速度で下れる。
下り始めて5分、ヨウコもスタートした。上からエンジン音が聞こえてきた。
この林道は舗装路とはいえ路面状態は悪い、細いタイヤのロードバイクではかなり恐ろしい。
それでも下りきるのに30分程度、少しの我慢だ。5分の遅れはその程度の時間では取り戻せないだろう。
林道は下り始めは鬱蒼とした杉林に囲まれている。圧迫感のある道で、道路幅は精々4mだ。車のすれ違いも難しいような狭い道だった。
林道は途中で山間部を抜けて田んぼが広がる道にでた。
ここで俺は、思い切り踏み込み速度を上げた。エンジン音は近づいている感じはするが、振り向く余裕は無かった。
また林道は杉の生い茂る山間部に入ったが、エンジン音が後ろからではなくサイドから聞こえているような気がする。そして遠のいていった。
「やられた!」
下り終えて、国道にでると、ヨウコとオフロードバイクを見つけた。
別ルートがあったのだ。相手はオフロードも走れるモータサイクルだった。フェースガードとゴーグルを外したヨウコは笑って言う。
「相変わらず、考えが浅い」
寿司屋
「天草と言えば、コハダでしょう」とヨウコが言う。
俺とヨウコはトライアスロンの舞台となった本渡市内の寿司屋にいる。
コハダをまず頼み、後はお勧めで行くことにした。
コハダを食べてから俺はまた訊いた。
「今まで何処にいたの」
その問いに、ヨウコはアーモンドアイを大きく開き、俺の目を見つめる。
俺は耐えきれず目をそらした。
「わかった、わかったよ、まずは俺からね、話すよ」
そして、ここ(天草)でぐずぐずしている俺の気持ちを話し始めた。