見出し画像

個人的な教育の話21 女性の気持ちが未だに分からない

悲しくってやりきれない
 私には息子を筆頭に娘が二人いる(娘1、娘2)。皆成人して巣立っている。そんな大人になった娘達によく言われることがある。
「母にお礼を言いなよ」
「母、悲しんでいるよ」
「母に優しくしてあげて」
「ありがとうくらい言いなさい」
全て正しい、私が悪い。
本当に母親思いのいい娘に育っている。
でもね、昔からではない。

 娘1が高校生の頃、母(妻)を全面否定し、常に喧嘩をしていた。妻は言い負かされて泣いて、今度は私に矛先を向ける。
「娘1の言うことは、わかるけど、あの言い方はないと思う」
「でも正論だよね・・」
「わかった、あなたは、娘1の味方なんだ」と私を追い詰める。
そして今、我が家の女子は全員で私を追い詰めている。

私の性格はどこから
 ネグレクトが原因なのか、性格なのか、はたまた病気なのか、私は人の気持ちがよく分からないことがある。
母親は私が相当の問題児で困っていたと言っていた。だからと言って人の顔色ばかりみて行動する子供にはしたくなかったようだ。
既に両親は亡くなっているので、事実は闇の中だが、少し変わった考えを持った親だった。

 幼少期の記憶としてよく思いだすシーンがある。
夕刻の暗い和室、物音一つしない部屋で、布団を敷いて、一人きりで寝ている。天井を見つめる私の心には寂しさが広がっていた。これが一体何を意味しているのか未だに分からない。

卒業文集
 20代前半くらいまでだと思うけど、悲しい出来事や、上手くいかないことが重なると、ストレスから本当に胸が痛むことがあった。狭心症ではないけど胸が締め付けられる。そして泣いていることもあった。状況としては一人きりで、暗い部屋にいる時が多かった。

 高校時代、部活(サッカー部)を辞めてから、オートバイと音楽さえあればいいやと、毎日刹那的に過ごしていた。
そんなある日の夕刻、たまたま家に一人きりだった。私は昔読んだ筒井康隆の本を探していた。本棚でその本を探していると、小学校の卒業文集が目にとまった。
「懐かしいぞ」
私は手に取って読み始めた。当時の時代背景も色濃く文章に反映している。これは面白い。幾つか友達の文章を読んでいると、ある情景が頭の中に思い浮かんだ。

 ***
 放課後、学校の渡り廊下で、2人の女の子に私は呼び止められた。
1人は髪の長い目の大きな図書委員の純子だ。もう1人は学校新聞部の部長、物静かで知的な智子。

 「イケちゃん、新聞部の活動に出てないでしょう」純子が怒った口調で言う。
「いや、サッカーが忙しくって」私はこの頃からサッカーチームを学外の友達と作って忙しかった。だから当初真面目に参加していた新聞部の活動はサボっていた。
「でも、イケちゃん新聞部の委員でしょう、智子ちゃん、凄く悲しんでいるよ」
「いや、でも」言葉に詰まる私。

 「イケちゃんの参加でようやく新聞が発行できたと、智子ちゃん、喜んでいたのに、どうしてよ」
実際、控えめな女子3人の新聞部で、唯一の男子であった私は、部の機動力となって活動を支えていた。私もこの活動が嫌いではなかった。しかし、当時の男子、友達を作るにはスポーツをするしかなく。さらに女子と一緒だと嫌みを言うウルサい男子もいた。

 智子は純子の隣でたたずんでいた。性格上を私に直接言えないのでお節介な純子が登場したのだろう。
今もそうだが、私は女性に追い詰められることが多くある。
その困った私の顔をみていた智子がある提案をしてきた。
「腕をかして」そう言うと、私の右前腕の肘に近い上側を掴んだ。
「もし、痛かったら、部に戻ってきて」
私は何言っているのか理解出来なかったが、取りあえず開放して欲しかったので同意する。
「いいよ」

 智子は私の前腕のツボだと思うが、そこを親指で押し始めた。
少し痛かったが、華奢な女の子の握力だ。たかが知れている。
「痛くないよ」と私は言う。
「我慢してない?」横で事の成り行きをみていた純子が言う。
「うん」

 腕を掴んだまま私を見つめる智子、その顔を見ると、瞳が真っ黒で、睫も長い、そして、その目が潤んでいた。私は智子が「可愛いなぁ」と気づいた。気持ちが揺らいだそのタイミングだった。
「もういいよ、智子ちゃん、行こう」と純子が言う。智子は掴んでいた手を離した。

 智子は私の顔を見つめながら、渡り廊下を純子と一緒に歩いていった。
暫くその場に佇んでいた私。私はなにか大切なモノを手放してしまったような気分だった。

***
 私は純子と智子の文章を読んでみた、2人とも他のクラスだった。
純子は小学生らしく、美容院をやりたいと自分の未来を書いてあった。
今度は智子の文章を読んでみた。
読み終わると少しショックだった。

 そこには新聞部の活動を書いていた。頑張って活動していたけど、ある男子が途中で部活に来なくなり、一生懸命誘ったのに、戻ってきてくれず。その後活動が上手く行かず悲しかった。そしてその男子を恨んでいると、小学生とは思えない文章力で書いてあった。
「この男子って、俺かぁ・・そして恨まれている」
私は悲しさで胸が締め付けられた。涙はでなかったが、私は人の愛憎に昔から疎い、気づかない。特に女の子の気持ちは全く理解せずに踏みにじっていた。そして気づいた頃は既に遅い。一方、気の強い女の子には、今と同じで追い詰められていた。

再会
 その30年後、トライアスロンの練習後、バイクで帰宅していたときだ。自宅近くの4m道路を流していたら、女性から声をかけられた。それは純子だった。
「おお、久しぶり。老けたな」
「お互い様だよ、もう30だよ」
「そうか、で、今なにやっているの」
「家の手伝い、家業だよ、後は婿養子を捕まえるだけ、練習帰り、ねぇトライアスロンやっているでしょう」

 私はこの頃、結構有名であった。1986年はトライアスロンの黎明期、私はテレビ、新聞などで鉄人レーサー、トライアスラーなどと際物扱いで取り上げられていた。この時代トライアスロンは特殊なスポーツだった。(トライアスリートと言います)
「やってるよ、これからスイミングへ行く」
「凄いね、そうだ、今度、弟をバイク練習へ連れていてくれない?」
弟がいたとは知らなかったが、話を聞くと私の高校の同級生との練習仲間だった。だから私の事を知っていたのか、納得した。
私は弟をその同級生と一緒にロードバイクの練習として、奥多摩の山へ連れていった。
 
結末は何時もろくでもない
 その後、美人になった純子と少し付き合いはあったが、発展することはなかった。なんせトライアスロン一筋だったからだ。そして智子の話は結局聞けずじまいだった。

 もし、私が話したら、おそらく。
「そんなことあったっけ、忘れたよ。そうだ智子だけど、もう結婚しているよ、イケ・・好きだったの(W)」
この結末はろくでもない。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?