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 鴨長明『方丈記』を英語に翻訳したのち、再び日本語に翻訳する――西田幾多郎『絶対矛盾的自己同一』理解のために

写真:左=鴨長明、右=復元された「方丈」@京都・下鴨神社(Wikipedia)

 つい先日、西田幾多郎『絶対矛盾的自己同一』をgoogle翻訳で英語に翻訳したのち、それを再び日本語に翻訳するという実験をしました。それは、難解だとされている西田の論文が、きわめて当たり前のことを言っているに過ぎないという私の考えを改めて捉え直すための手続きのようなものなのです。
 で、今回は、余りにも有名な鴨長明『方丈記』の冒頭の部分に、同じ手法を適用して、その結果をnoteに発表しようというわけです。
 その原文は、つぎのとおりです。

 行く川の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたかは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし。玉敷きの都の内に、棟を並べ、甍を争へる、高き賤しき人の住まひは、世々を経て尽きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。

鴨長明『方丈記』

 ただ、このままの古文ではgoogle翻訳の歯が立たないようです。で、有名な詩人の佐藤春夫の現代語訳を用いることにします。

 流れていく川の流れは絶えることがなくて、それでいて、(その水は刻々移り)もとの水ではない。流れの淀んでいるところに浮かぶ水の泡は、一方で消えたかと思うと、一方ではまたできて、いつまでもそのままの状態で存在していることはない。このように生まれてきている人と住まいも、また、同じようなものである。玉を敷きつめたように美しい都の中に、棟を並べ、屋根の高さを競っている(ように並んでいる)身分の高い、また低い人々の住まいは、幾世代を経てもなくならないものであるが、これらの家々が本当に昔のままで残っているのかと調べてみると、昔あったままの家は珍しい。

佐藤春夫(現代語訳)『方丈記』

上記の文章をgoogle翻訳で翻訳した英語の文章は、つぎのとおりです。

 The flowing river never stops flowing, yet (the water changes every moment) it is not the original water. Bubbles of water floating in a stagnant stream will disappear, but then they will form again, and will never remain as they are. People who are born this way and their homes are also similar. The houses of people of both high and low status, lined up in rows of buildings and competing in roof height, remain in this beautiful city that looks as if it were paved with beads, no matter how many generations pass. However, when I investigated whether these houses really remained as they were in the past, I found that it is rare to find a house that has remained as it was in the past.

googleで英語に翻訳した『方丈記』

 上記の英語の文章を、google翻訳はつぎのような日本語に翻訳してくれました。

 流れる川は流れを止めることはありませんが、(水は刻々と変化します)元の水ではありません。よどんだ流れに浮かぶ水の泡は、一旦消えますが、また発生し、そのまま残ることはありません。このように生まれた人々とその家庭も似ています。屋根の高さを競うように立ち並び、身分の高い人も低い人も住むこの美しい街並みは、何世代経っても残っています。 しかし、これらの家が本当に昔のまま残っているのか調べてみると、昔のまま残っている家は珍しいことが分かりました。

googleで日本語に翻訳し直した『方丈記』

 これって西田幾多郎のいう「絶対矛盾的自己同一」ということの、きわめてリアルで具体的な現象の描写なのではないでしょうか。
 つぎにnoteに掲載する予定の文章では、そのことを明らかにしたいと思っています。


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