「歌枕」という「仮想現実」に誘われる旅をしてみました
京都郊外に住む年金生活者です。京都とその周辺にはたくさんの「歌枕」があります。コロナの時代でも、そんな場所は余り「密」になりません。で、そんな「歌枕」に誘われた旅を試みてみました。
西行が歌い上げる桜満開の吉野へ
春、桜の命は短いものです。だから、機会を逸してはなりません。毎年、そう考えて桜の名所に急ぎます。で、ある年、奈良の吉野に行きました。西行の、こんな和歌を思い出したからです(和歌は漢字を交えて表記。以下同様)。
願はくは花の下にて春死なむその如月の望月のころ
西行の時代の花は、すでに梅でなく、桜になっていました。それに、彼の命日は1190年、いうまでもなく年は異なるのですが、釈迦入滅の翌日に当たる陰暦2月(如月)16日です。陽暦なら3月31日です。みごとに願いはかなえられたことになるのでしょう。
その西行が愛でた桜は吉野の「それ」でした。つぎの和歌にそのことが見て取れます。
なにとなく春になりぬと聞く日より心にかかるみ吉野の山
吉野山さくらが枝に雪ちりて花おそげなる年にもあるかな
吉野山こずゑの花を見し日より心は身にもそはずなりにき
それぞれの意味は、つぎのようになるのでしょう。
「春になったと聞くと、吉野山(の桜)が気になる」
「桜の枝に雪が舞い散ると花が遅れそうだなと思う」
「吉野の桜を目にすると心が体を離れているような気になる」
そんな歌に誘われて訪れた吉野は霧雨に煙っていました。が、山の濃い緑に縁取られ、遠く薄桃色に、ぼーっと霞む満開のヤマザクラの群生は、いつも京都のソメイヨシノを見慣れた目に新鮮でした。
空気は肌寒いのです。が、しっかり春は始まっていました。
そう、歌は読み手に勝手なイメージを呼び起こさせます。で、実際に、詠まれた歌枕を訪れてみると、そのとおりであったり、そうではなかったり……。吉野への小さな旅はそんなことを教えてくれました。
宇治の歌枕:万葉の昔から源氏物語まで
それから1年近く、真冬の宇治に出かけました。2014年4月に平成の修復を終えて公開された世界遺産の平等院鳳凰堂が見たくなったのです。
それは11世紀半ば、浄土信仰が盛んになり始めた時代に関白・藤原頼道によって建造されたものです。みずからが極楽浄土に迎えられると共に、その権力を顕示するために阿弥陀如来を祀ろうと考えたのでしょう。美しい水辺に、いい匂いの花が咲き乱れ、耳にやさしい音楽の流れる、すべてが快い浄土の相貌が露わになったようです。
実際、池をはさんで洲浜に縁取られた島の上で両翼を広げて飛び立とうとする鳳凰をかたどった偉容は「バーチャル極楽」と呼ばれるにふさわしいと思わされます。それが、乱れ果てた末法の世に出現したとき、建造者の満足と同時に人々には畏怖と尊崇の念を抱かせたに違いありません。
そんな鳳凰堂が立地する宇治の地は、ずっと古い万葉の時代に歌枕の地位を確かなものにしていました。たとえば648(大化4)年の皇極天皇の宇治訪問を回想して、額田王がこんな歌を詠んでいます。
秋の野の美草刈り葺き宿れりし宇治の宮処の仮廬思ほゆ
「秋の野に生える草を刈り、それで屋根を葺いてお泊りになった宇治の仮のお宿が偲ばれる」
というのでしょう。
あるいは『万葉集』に「詠み人知らず」のこんな歌があります。
宇治川は淀瀬無からし網代人舟呼ばふ声をちこち聞ゆ
「宇治川には緩やかに淀んだ瀬がないらしい。網代をかける漁師の船を呼び交す声があちこちから聞こえる」
たしかに今も宇治川は、日本の河川には珍しいほどの水量を誇って堂々と流れています。
以来、時代をくだった平安時代初期、わずか2首ながら、百人一首にも名を残す喜撰法師がこんな歌を詠みました。
わが庵は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり
「私の庵は都の東南にあって、このように(のんきに)に暮らしているのに、この世の憂さから逃れて住んでいる『うぢ=宇治=憂し』山だと人は言っているようだ」
直情を詠んだ歌の多い『万葉集』に比べて『古今集』以後、掛詞などの技巧を凝らした歌が増えます。が、同時にこの歌は、宇治という場所の特質を暗示してもいます。京都の都心から五里余り、理由は何であれ都から引き籠もるのにふさわしかったようです。
このことは『源氏物語』の掉尾を飾る「宇治十帖」からも読み取れます。源氏の弟の八の宮は二2人の娘と宇治に隠棲し、仏道三昧の生活を送りました。
その宇治には源氏物語ミュージアムがあって王朝短歌の世界に誘ってくれます。
京の歌枕を訪ねて:小野小町と和泉式部
王朝短歌といえば、京の都をはずせません。
宇治から京都に向かう途上に随心院という寺があります。ここに平安前期、9世紀の短歌の名手だった小野小町の歌碑があります。彼女はまた絶世の美女でもあったのだそうです。
その伝説は世阿弥に「深草少将の百夜通い」を創作させたほどです。この小話で、小町は言い寄る深草少将に「私のもとに百日通い続けてくれたら結婚しよう」と言ったことになっています。が、ちょうど百日目の寒い日に彼は雪に埋まって凍死してしまったのでした。
もっとも、そんな小町の美貌も寄る年波には勝てませんでした。
花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに
「花の色は(春の長雨で)色あせてしまった。(恋や世間)もろもろに思い悩んでいるうちに私の美貌が衰えてしまったように」――切ないまでの無常観です。
むろん京都にも、小町は多くの足跡を残しています。たとえば西陣の一角に「小町通」と記した小さな石碑があります。「雙紙洗水(そうしあらいのみず)遺跡」なのだそうです。
その昔、そこで大伴黒主と小野小町の歌合せが行われたのです。その際、黒主は余りに巧みな小町に嫉妬し、その歌を記した草紙に手を加えて盗作であるかのように見せかけようとしました。
が、小町はそれを見抜き、黒主の改竄を井戸の水で洗い流し、ことなきを得ます。真偽のほどはともかく、こうしてそこは小町通と呼ばれるようになりました。
その石碑から至近距離の場所に堀川を渡る一条戻り橋があります。平安中期以後、堀川の西側は衰退が著しかったといいます。そのため異界に通じる橋として不思議な伝承や風習を生みました。
たとえば、漢学者の三善清行が亡くなったとき、熊野から駆けつけた息子の浄蔵がこの橋の上で父の葬送に出会い、棺にすがりました。すると清行がしばし生き返り、抱き合って会話を交わしたといいます。それが橋の名の由来になった。そこで和泉式部がこう詠みました。
いづくにも帰るさまのみ渡ればやもどり橋とは人の言ふらん
「どこへ行っても帰る時にだけ渡るから戻り橋と人は言うのだろうね」
そんな場所の存在しうるはずはありません。才女は、さらりとその不思議を歌に込めたようです。
このほか一条戻り橋には、渡辺綱が美人に化けた鬼に、
「夜更けで帰り道が不安だから送ってほしい」
と言われて、愛宕山に連れて行かれそうになったという伝説などもあります。
京の風景に季節の移り変わりを詠む
歌枕に思いを馳せていて、高校の授業で習った『万葉集』の劈頭を飾る雄略天皇の素朴な歌を思い出しました。
籠もよみ籠持ち掘串もよみ 掘串持ちこの丘に菜摘ます児 家聞かな
名告らさね そらみつ大和の国はおしなべて われこそ居れ しきなべ
てわれこそ座せ われこそは告らめ家をも名をも
「美しい籠と美しい箆を持ち、この丘で菜を摘む乙女よ。どこの家の娘なの? 名は? 大和の国はすべて僕が治めているんだよ。僕こそ名乗ろう、家柄も名も」
場所は当然、奈良盆地のどこか、だったのでしょう。
それから時代はくだり、都は平安京に移っていました。その郊外で、今度は光孝天皇が自ら若菜を摘みます。
君がため春の野に出でて若菜摘むわが衣手に雪は降りつつ
あなたとは誰なのでしょうか。雪の降る日に衣服の袖を濡らしてまで天皇が若菜を摘んだりしたのでしょうかか。場所は? 若菜とは?――内容は単純ながら、いろんな思いが駆け巡ります。
調べてみると即位以前、鷹狩りの際に詠んだのだといいます。場所は百人一首の選者・藤原定家の別荘のあった嵐山の小倉山に源を発し大堰川に注ぐ、今は瀬戸川と呼ばれる芹川周辺の野であったようです。で、若菜は清らかな水で育つ爽やかな香りの高いセリだったのでしょう。それを大切な人の長寿を願って贈ったのです。
秋の都の風景を彷彿させる歌には、こんな歌もあります。
風そよぐならの小川の夕暮れはみそぎぞ夏のしるしなりける
詠んだのは藤原家隆で、場所は世界遺産の上賀茂神社、ナラの林の樹間を流れる御手洗川のほとりです。
「夕暮れ時、そよぐ風に秋が感じられる。が、流れる水で身を清めるみそぎが今なお夏であることを教えてくれる」
そこには、「東風とともにに寒中に咲く梅の花に春を知り、真夏の微風に秋を感じとった(川添登)」日本人の季節感の不思議が表出されています。
天橋立、富士山、松島での歌枕体験
京都を遠く離れた歌枕にも、心をゆさぶる歌枕は少なくありません。
小学校低学年のころ、家族で丹後の由良に行ったことがあります。初めての海水浴でした。
その帰り道、小高い丘の上で海を背に前屈し、両足の間から天橋立を見る「股覗き」を教えられました。視野が変わったからか、瞬時に風景が鮮やかさを増す不思議に驚かされたものです。
大江山いく野の道の遠ければまだふみもみず天橋立
そのとき、何も分からぬまま、この歌を覚えました。
作者は和泉式部の子の小式部内侍です。あるとき彼は、歌会で巧みに歌を詠んで「お母上の代作?」と冷やかされます。そのとき母の赴任先の丹後への道を詠み込んで、すかさず返したのがこの歌だといいます。つまり、
「(都から丹後半島の付け根の)大江山を越えて行く生野の先の丹後へは遠いので、まだ天橋立の地を踏んだことも、母からの手紙(=文)を見たこともありません」
さて、天橋立、安芸の宮島と並ぶ日本三景の一つに松島があります。その松島には東日本大震災から4年後の夏に訪れました。
見せばやな雄島のあまの袖だにもぬれにぞぬれし色はかはらず
詠んだのは殷富門院大輔。雄島は松島湾の島の一つです。で、これには、
「雄島の漁師の袖は(恋の悩みで)涙に濡れた私の袖と同じようだ」
という意味の本歌があります。一層その意を強めたのが、この歌なのです。つまり、
「血の涙で(色まで)変わった私の袖をお見せしたいものだ。松島の雄島の漁師の袖でさえ、濡れてはいたものの色が変わることはなかったのだから……」
そこに松島の風景を彷彿させる要素は皆無です。ただ、ずっと時代をくだった近世、芭蕉の作だという誤解を広めた17文字に、
松島や ああ松島や 松島や
というのがあります。これは『松島図誌』という書物に狂歌師の田原坊が寄せた「松嶋やさてまつしまや松嶋や」が少し姿を変えて今に伝わっているのだそうです。それが松島湾を有名にした功績は小さなものではなかったのでした。
今ひとつ、京都の中学生だったころ、山部赤人の歌を習ったときに無性に富士山が見たくなったのを思い出されます。
田子の浦にうち出てみれば白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ
願いが満たされたのは高校2年、東京への修学旅行の帰り道でした。箱根の強羅温泉に泊まった翌朝、芦ノ湖の向こうに朝日に輝く雄大な富士山が見えました。
それから半世紀余、それは2013年、ユネスコ世界文化遺産に登録されます。それが「文化」遺産だったことを思うと、天平の昔から伝わる田子の浦という歌枕、そこから富士山を眺めた歌人の山部赤人のなした貢献も小さなものではなかったことになります。
「かくかくに祭」から「ちはやふる」電車へ
古い時代だけではありません。近代以降も歌枕は増殖し続けてきました。
いのち短し 恋せよおとめ 赤き唇あせぬ間に……
大正初期に大ヒットした歌謡曲「ゴンドラの唄」の作詞者・吉井勇は歌人でもありました。夏目漱石や谷崎潤一郎など、多くの文人を惹きつけて「文学芸妓」とも呼ばれた磯田多佳のいた京都、祇園の茶屋の大友に泊まった際にはこんな歌を残しています。
かにかくに祇園はこひし寝るときも枕のしたを水のながるる
その歌碑が1955年、吉井勇の古希を記念して、祇園を流れる白川沿いに建造されました。そして毎年11月8日、絢爛な和服に身を包んだ多数の芸舞子が集まって献花する「かにかくに祭」が催されています。これまた一種の歌枕だといえのではないでしょうか。
いや、現代日本では、短歌とは無関係に「歌枕のようなもの」を生み出す、たとえば美水かがみ『らき☆すた』のような作品もあります。
それは、小柄でアニメやゲーム大好きな4人の女子高生の「まったりした日常」を描き出す4コママンガです。主人公のうちの2人である柊姉妹の父は鷹宮神社の宮司で、その境内の住まいには600形の黒電話が置かれています。
それがアニメ化されて2007年、テレビで放映されました。その際、埼玉県に実在する鷲宮神社が鷹宮神社のモデルとして選ばれるのです。
すると、鷲宮神社が『らき☆すた』の「聖地」と呼ばれて多数のファンが詣でるようになりました。で、絵馬に『らき☆すた』の登場人物の絵を描き残すわ、コスプレ姿で参拝するわ。結果、以前は六万人余だった正月三が日の参詣客が、テレビ放映直後の2008年には30万人を数え、以後4、50万人に達するに至っています。
さらに関連グッズの開発と販売も始まりました。主人公の姿を描いたカードや菓子類、ラーメンや「ひいらぎし(柊姉妹)米」などが結構な人気を呼んでいるようです。さらにファンたちは「聖地を清める」清掃などのボランティア活動に参与し始めたりもしているようです。
これは当然、短歌に触発されたものではありません。が、創り出された虚構の世界に多数の人々が惹きつけられるのは、短歌に魅せられて詠み込まれた歌枕を訪れるのと同じではないでしょうか。
そういえば、小倉百人一首の札を用いて行なわれる競技カルタを題材とする末次由紀の少女マンガとテレビアニメも大きな人の動きを生み出しました。その表題は『ちはやふる』――在原業平が「いろんな不思議が起こった神代の昔にも、龍田川が(一面に紅葉を浮かべて)水を真っ赤に染めたとは聞いたことがない」と詠んだ短歌、
ちはやぶる神代も聞かず龍田川 からくれなゐに水くくるとは
に由来しています。
この物語の詳細は元の作品に譲りますが、そのテレビ放映が始まると、滋賀県大津市の近江神宮を訪れる人の数が急増しました。そこが毎年1月に競技カルタの最高峰「名人位戦」と「女性部門のクイーン位戦」が開催される競技カルタの、いわば「聖地」だからです。
結果、同地を通過する京阪電鉄は「ちはやふる」ラッピング電車を2015年まで3年余にわたって運行したのであった。
そこで話は、この小文の冒頭に戻ります。西行が吉野の桜を詠んだ短歌、藤原頼道がこの世に現出させた極楽浄土――いずれもが「よくできた仮想現実」にほかならないのではないでしょうか。人はそういう情報やモノに誘われて旅や観光に出るのです。
大昔から日本に伝わる歌枕には、そんな現代にも通じる意味がはらまれていたのでした。
(「天橋立」「松島湾」の写真:Wikipedia、「ラッピング京阪電車」:Wikimediaより、それ以外の写真:筆者撮影)