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小説「三つ編み」("La Tresse"):グローバル化が強化する女性間の不平等

少し前に日本で話題になっていたレティシア・コロンバニの「三つ編み」。入社後2年程度は業務でフランス語を使っていたものの、異動してからここ2年はからっきしなので、勉強がてら原著の « La Tresse »を読むことにした。比較的平易なフランス語で書いてあるので、辞書を時折ひきながら通読することができた。


本作では、表題「三つ編み」が指すように、住む国も立場も違う三人の女性がそれぞれの苦境と立ち向かい、また最後にそれぞれの人生が交差する様が描かれる。

 スミタはインドの地方部に住む、カースト外の「不可触民」であり、上位カーストの排泄物の回収を先代から生業にしている。このような生活のなかでは、娘のラリータを学校に入れて読み書きを習わせ、自身のような境遇に娘が抜け出すことが彼女の悲願だ。しかし、漸く入学させた娘が、教師から出自を理由としたいじめに遭うことになる。
ジュリアはイタリアのシチリアで、代々毛髪加工業を営む家庭に生まれ育った。しかし、突然の父の事故と、その家業の経営難に直面する。

サラはカナダの敏腕弁護士で、2度の離婚を経験し、三人の子を持つシングルマザーであり、私生活を犠牲にしてもすべてを仕事に投じ、華々しいキャリアを歩んできた。しかし、経営パートナーに昇進する手前で病が発覚する。

まず全体の印象に言及すると、爽快感のある映画のような物語だった。それもそのはず、作者のレティシア・コロンバニは映画監督なのだ。私はオドレイ・トトゥが主演した「愛してる、愛してない…」(とても面白い!)しか観ていないが、この小説でもストーリーの流暢さと展開のドラマティックさが印象的である。全体的な明るいムードや、ご都合主義さもある最後の展開も含め、エンターテイメントとして本作を多くの人に摂取しやすくするような味付けがされており、楽しく読むことができるフェミニズム物語である。そういう意味では、近年話題になった「侍女の物語」や「82年生まれ、キム・ジヨン」のように、女性のおかれている苦境をリアリスティックに描くことを主眼とした作品たちとは一線を画しており、極めて摂取しやすいものものがたりである。

そして構成は、前述したとおり住む国も立場も違う三人の女性の人生が平行で描かれる。このストーリーテリングの方法は、最近私が読んだ « Woman, Girl, Others » や »The Testaments » などのフェミニズムの要素の色濃い各作品とも共通している。フェミニズムの根幹となる考えをあらわす上では、人間の多様性を認めつつ、それぞれの人生の等しい肯定と言及が不可欠だからだろうか。(男性も元来そうなのであるが、)日本という一つの人種や民族が支配的な国であっても、人々はそのクラスター(未婚/既婚、子持ち/子なし、専業主婦/ワーキングウーマン、地方/都市等)によってプレイすることになるゲームが大きく異なるところ、さらにスコープを広げて人生を描く場合、本来は無数の人々の語りが必要となるはずだ。

(注:以降はネタバレになるので未読の方は読み飛ばしてください)
一方、私はこの作品はポリコレを指向していながらも、グローバリゼーションがもたらした「中心」(=先進国)と「周辺」(=発展途上国)の二極化と、中心による後者の搾取構造を所与のものとして疑問を呈さないところにひっかかってしまった。

ジュリアは安く調達できたスミタの髪によって儲けを得ることができ、サラはその質の高い髪を使って人生に対する前向きさを取り戻すことに成功する。しかし、スミタは髪を全て失うことになったのに、何もその報酬を得ることがない。この作品では彼女は代わりに信仰心の充足を得たと説明するのだと思うが、そのような考え方は先進国でそれを享受する側の欺瞞なのではないか?発展途上国の女性の対価のない犠牲によって、先進国の女性2人に利益がもたらされる構図は、グローバリゼーションによって女性間の不平等が強化される一面を皮肉にも描いているように思え、この物語のメッセージ性を弱める結果となっていたと思う。


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