表千家短期講習会にて
そもそも茶道との出会いは広島に住んでいた頃、お茶を嗜んでいる大先輩がまだ数回しか会った事がないにもかかわらず、外国人である私の好奇心を察して彼の着物を私に着せてお茶を点ててくれことが嬉しくて、その素敵な出会いと初めての茶道体験からいつか習ってみたいと思ったのが最初でした。あれから10年が経ち、あるきっかけでお茶事にお招きいただき、その時に懐石料理を食べて濃茶と薄茶を頂きました。茶道の奥深さはもちろんですが、先生の人柄に惹かれ、そこで茶道を習うことを決めたのでした。
日本人が自国の茶の湯にふれるのはごく自然に感じますが、外国人である私が日本の茶道を習うということは何かが違う気がします。その何かを探るために今回は表千家短期講習会に参加してきました。
一週間の鬼のようなスケジュールの中で厳しい修行に耐え、いくつかの気づきを得ました。その一つは正座。外国ではそもそも正座の文化がないので、言うまでもなく座るとすぐに痺れます。参加者の中には私よりも正座が苦手な日本人がいたのが驚きました。しかし、苦手なことに対して真正面から向き合うそのチャレンジ精神は見習わないといけないと思いました。
毎朝6時から1時間の勤行法話の間はもちろんずっと正座ですが、10分過ぎた時点でもう落ち着かなくなりました。ご指導頂いた先生は、足を組み替えず体を動かさないこと、背骨を真っすぐ大地に突き刺すようにして座るのがコツだとおっしゃっていました 。
3日目の勤行法話で半信半疑に言う通りに試したところ、すぐに足の痺れ、その後足が火に焼かれているような鋭い痛みが足首から膝までを覆うようになりました。ところが面白いことに何度か試しているとその日の午後、お稽古見学時にわずかながらも「気持ち良さ」を感じました。それをもっと長く味わうために目を半開きにして全身力を抜くと、静寂な茶室に1人だけいるような感覚で五感が研ぎ澄まされ 、小鳥の囀りと釜から聞こえる僅かな音色が重なり、美しく調和していました。
「本来無一物、何処惹塵埃」という言葉のように、そもそも痛みとは何かよく分からないものなのに、どうして我慢する必要があるのだろうか。普段の生活で何かに執着しすぎていることがあるのかもしれない、とその時に考えさせられました。
それから4日、5日、同じように動かずに耐えていたら、だんだんと「焼くまでの時間」が伸びていきました。今では正座に対する苦手意識がすっかりなくなりました。
もう一つ本当にすごいと思ったのは、稽古をつけてくださった先生は受講生の得意不得意を一瞬で見抜き、必要なアドバイスを的確に与えていた事です。見事な観察眼だなと思いながら、いつも先生の目の動きを追っていました。その後の懇親会で先生に伺ったところ、やはりよく受講生の足の動きを見ていたそうです。足の運びを考えなくてもすっと出せる人、アドバイスを与えるとすぐに直せる人、意識しながら歩く人、それぞれ違う熟練度の人に対して当然違うアドバイスをしなければなりません。卒啄同時をいつも心がけていると教えてくれました。一方で、敢えて何も言わない時もある、先生曰くそれは「託す」だそう。
その他にも先生に懐石が美味しい料亭について尋ねましたが、先生は教えてくれませんでした。意表をつく答えが返ってきてなんだか嬉しかったです。懐石が美味しいのは当たり前で、重要なのは誰と一緒に食べるか、誰に料理を作ってもらうのか、誰に運んでもうらかの方が意義があると教えて頂きました。物ではなく人なんですね。
点てたお茶をお客様はどんな表情で飲まれているのか気にしなくてはなりません。残念ながら私にそんな余裕はありませんでした。意識が違うところへ行って茶室へ入るのに右足から入ってしまった自分の不甲斐なさを痛感しました。
稽古場での最終日、最後のお点前をする受講生がお茶碗にお湯をゆっくり入れていくのを見て、どうしても涙を抑えきれずに色々な感情を湧き上がってきてしまいました。幸い扉の影が当たり、汗と涙が合流しているのを気づかれずに済みました。この分刻みのスケジュールを仲間と一緒にこなし、正座にひーひー言いながらも励まし合いながら乗り越えてきましたが、それが終わろうとしている事を思うとやはり寂しいものです。
現代のテクノロジーを捨て、一生懸命お茶に向き合ってきたからこそ得られた充実感で、人生においてすべて全力で行くと寿命が縮むかな、と思いながら気持ちを落ち着かせました。
講習会で学んだことはまだまだたくさんありますが、これからゆっくり消化して自分の糧にしたいと思います。とにかく、今回は良い仲間に巡り合えて、先生方や関係者すべてに支えられながら茶道の奥深さに触れ、短い一週間ではありますが、短期講習会に参加して本当に良かったと思います。
感謝の気持ちで胸がいっぱいです。
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