見出し画像

『職務歴を晒せ!!としてシリーズをマイナーチェンジーー憧れの新聞記者になりました』

  前回まで『アルバイト歴を晒せ』シリーズとして、過去にやったアルバイトの内容や、そこでのエピソードなどをさらさせていただき、その流れで大学4年での就職活動なども“晒させて”いただいていました。
   時系列に合わせて、今回からはマイナーチェンジ『職務歴を晒せシリーズ』として展開させていただきたいと思います。
    以前に書かせていただきました
『アルバイト歴を晒せ』にて

https://note.com/koofighting/n/n985c69305ed8

書かせていただいた、ちゃんと就職した履歴も参考にしていただければと思います。

   時は1991年、3月頭に大学の卒業式を終えた。ちなみに取得単位ギリギリでの卒業。年末のお歳暮発送の水産バイトを利用して、教授陣に『高級 数の子』を持って教授らの部屋を訪ねたのが、効いていると思っております。顔を覚えてもらえて、印象が悪くなければ、世の中ってさ、よほどのことがない限り、なんとかなるもんだよね。     そして大学卒業し社会人となり『株式会社 電波新聞社』に入社。前回の就活話にも記してますように、電気業界の専門紙でした。     成りたかったマスコミ、そして新聞記者に成れた事への期待と、社会人に成った事への不安も入り混じったスタート。まぁ不安としましたが、漠然としたもので、シリーズ読んで頂いてる方にはお分かりかと思いますが、基本的に舐めたガキだったので、期待とともに「余裕でやれんでしょ」と高を括ってたというのが、一番あてはまってましたかね。  しかも「やりたいのは電気業界の専門誌ではない、先々フリーのライターとなる基本勉強と経歴が欲しいがため」と何処から目線だよとツッコミ入るくらいの舐めた考え。まぁ、大手の新聞社に受からなかった自分への言い訳ですよね。
 入社は4月1日からでしたが、3月後半から『社会人研修』とか言う研修が五反田本社にて始まりました。その後に会社内を知るようになっても、社内にはそのような部所も、その方もいなかったようなので、社外の講師だったと思われる女性より、社会人としての基本のルールやマナーを教えていただく研修がなされました。 ・身だしなみ ・言葉遣い ・電話対応 なとなど。    講師から座学的に教えてられたあと、講師と実技やったり、新入社員同士で実技したり、そこで間違っているところなどを指摘指導されたり、といった感じ。そこに部長面接で対峙していた部長さんたちや、他の先輩社員等が、覗きにきたり、手伝いにきたり。 ちなみに、そこに来ていた新入社員は本社採用組の10人くらいだったかな?正直、覚えてないわぁ(汗) 研修は一週間くらいだったと思う。社内の部署の説明や見学などもあり、初めはぎこちなかったものの、新入社員同士も、徐々に打ち解けていったっけ。その中に地方からの就職組が数人いて、新入社員寮にいるとのことたった。 「あれっ?そんな寮があったのか?俺も空いているなら入りたかったけど、特に説明もなかったな。希望も聞かれなかったし」と思い、新入社員の指導担当の社員の方に尋ねてみたところ 『空いているはずだから、入れるんじゃないかな?担当に聞いてみる』とのことで、後に帰ってきた返答は 『基本的に、都内近郊の通勤圏に住んでいる人には案内せず、地方出身の新入社員にだけ紹介していた。空いているから入寮は問題ないので、どーぞ』と簡単なものだった。    卒業にあわせて住んでいたアパートも引き払っていた。就職後は地方への配属の可能性もあるとの事だったので、とりあえず東京の実家に戻ってはいた。しかしながら、一度出た実家には居場所が無いもので、もともと兄と一緒につかっていた部屋は、兄が独占して使っていた。とりあえずの荷物は置かせてもらえたが、基本的には居間で寝起きしていた。大きい荷物などは後輩のアパートの外廊下に置かせてもらった。今思ってもなかなか無茶な要望だったと思うが、彼が前々から欲しがっていた、〝PEYTONPLACE〟と〝Men'sBIGI〟のジャケットを譲ることで、快く引き受けてくれたので、問題はなかったとしておこう。
  そんなこんなだったが、すぐに寮には入れるとのことで、入社日前の最後の土日に後輩の部屋からと、実家から数回に分けて荷物を運び入れた。新入社員寮は古びたマンションの1階で、2階より上は社員寮で先輩社員が10数家族住んでいるようだったもともと、3DKの2部屋をブチ抜いたと思われるワンフロアに6畳の部屋が7つ、既に2人の新入社員と寮長として先輩が1人住んでいた。場所は本社社屋のある五反田駅前から徒歩10数分ほど、北品川の『御殿山』と呼ばれる高級住宅街の中にあった。引越し当日に初めて会った先輩社員に寮の説明受けながら 「目の前の、門構えの豪華な造りの家は、原辰徳の奥さんの実家。その横のアパートにはモノマネ芸人のコロッケが住んでてココに来るときに曲がる手前のマンションには いかりや長介 が住んでいるよ」とと教えてくれた。その他、各界の著名人がたくさん近くに住んでいたようだった。またすぐ近くに『御殿山ヒルズ』がそびえ立ち、その横には、今は閉館してしまった『原美術館』もあって、休みの日は「そういう場所で優雅にアートと茶を嗜む優雅な社会人」を背伸びして“演じて”たりしたっけな。このシリーズの始めの頃の中学生時代から、この背伸びしてカッコつける思考回路は変わらずでしたね。
 寮のとなりには寮母さんが住んでいた。朝と夕の食事の用意と、共用部分の掃除などをしてくれていた。食事は、寮生の名前と1週間分の表みたいなものがあり、食べるときは◯用意がいらないときは✕を、日付けの横の自分の枠に印す事になっていた。また、土日祝は食事の用意は無かった。では、その休みの日の食事はキッチン使って、自分で作って良いか?というと「それはダメ。冷蔵庫と電子レンジは使ってもよし」とのこと。学生時代に自炊したり、友人の家で料理したりしていた俺には、これはなかなかの厳しいルールだなと、当初戸惑ったっけ。そんな食生活が後に事件をひき起こすのだが、その話はまた改めて、とりあえず話を進めよう。
   4月になり、晴れて正式に入社となる。初日に入社の辞令授与みたいなのがあり、本社社員全員の前で、授与式みたいなことをした。その後、訓示的な社長の話があり入社式は終わる。事務採用の女子社員と専門職採用以外の新入社員は、皆『販売部』の所属とされた。販売促進をメインの仕事とする部署だが、基本的にはG藤課長以外の所属はいないようで、新入社員育成の部署のようだった。数日かけて『販売部』の仕事の説明と準備などを教えられ、数日後には実践となる。最初のころの仕事内容は、都内23区を中心に地域を各新入社員に割り当てられ、担当地域を決められた。俺は江東区、江戸川区、葛飾区と地理も詳しいだろうと地元近辺を割り当てられた。
主な仕事内容はというと、担当地域の電気店のあいさつ回りしながら
・新聞の勧誘
・店主、従業員の現場の声を聴く
・それを記事にする
簡単に言うと、こんな感じ。
・新聞購読成約
・書いた記事が新聞に掲載
などがポイントとなり『販売部』の壁に大きく張り出された、営業成績表の名前の上に棒グラフのようにポイントが書き足され加算されていった。同じフロアにある他部署からも一目瞭然の構図、晒して各人にハッパをかける。昭和感の残る新人教育でしょ。個を尊重する現代では、もう見れない風潮じゃないかな。今の会社組織内情はよく知らんけど。
 成績上げれない者にとってはプレッシャーになっていったのかもしれないが、俺はというと、そこそこの経験をいろいろなバイトで養っていたので、それなりにこなしていけた。店舗へ営業も、学生服販売時のクレーム対応で顧客の家に赴くことに比べれば、やらかしている相手でもない所への飛び込みなどは、なんてことも無かった。聴き取った話を記事にすることも、学生時の新聞編集の延長気分でできた。多少の直しはあったものの、早い段階から記事掲載されていくようになった。
 ちなみに購読契約、記事掲載の行数のは、それに応じた歩合給が給料に加算されていた。これは成績張り出しより、俺には効果あった。
 そんなものだから、調子付くのも早かったな。そうなった時に、さらに上目指すようなストイックさは無い。そこそこをキープしつつ、どう手を抜こうかと考えだすようになる。やはり、まだまだ舐め切っている俺だった。

そんなわけで、
社会人編スタート初回はこの辺で
次回
『社会人1年目を舐め切りながら満喫・・・そして』
に続く。


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集