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彷徨うおっさん76 移ろいゆく幸福観(6/6) まとめ 世代を跨いだ幸福の模索
前回は、③集団から個人の時代になってきた ことについて、今では考えられない過去の所有へのこだわりと対比しつつ、
生き方そのものの追及に幸福を見出す考え方が広まってきている現状を述べた。
最終回の今回はまとめとして、ではこんな時代において、旧世代は下の世代と、下の世代は旧世代とどう折り合いをつけるか、
おっさんなりの意見を述べたい。
<幸福とはなにか、本質を説明できるか?>
君はなにをしたいのか? もっとこうしたらいいのではないか?
苛立ちを含みつつそのような詰め寄り方、あるいは余計なアドバイスをしてくる人がいる。
どんな人かと確かめるとやはり、右肩上がりの時代を経験してきた旧世代であることが多い。
何をしたいのか、やりたいことが具体的に決まっていることは良いことである。
それを実現するために毎日生きることで、自分の人生に没頭できるのも事実だと思う。
そしてメリットは他人に対して、自分自身を説明しやすい事だと思う。
説明できれば協力も得られやすくなり、より自分の目標にも近づける。
具体的な目標を決めることは非常に合理的で、答えがある限りは良い発想であるとは思う。
だが、斜陽の時代を迎えた今、具体的な目標など立たないのだと旧世代は理解せねばならないと思う。
10年ぐらい前まではなんとか、ポジティブメソッドで自己開示をし、選択と集中で効率よく事業実施すれば、
わずかに残った果実を回収することもできたかもしれない。
だがそれももうおそらく通用しないのが今の、そしてこれからの時代だろう。
若いうちは心残りを生じさせないためにも、一定期間はそんなやりかたで良いかもしれないが、
30も過ぎたらそんな無謀な賭けは徐々に無くさなければなるまいと思う。
本当の幸福は人それぞれで、具体的である必要もない。正解をそこに求めてはいけないのだ。
自身の欲望が具体的だとしても、多くの人はぼんやりとしか欲求を持てないという事実は確かにあると思う。
旧世代は冷静にそれを捉えられるだろうか。
また、抽象的な概念は定義があいまいで理解も難しい。
それでも抽象的にしか言い表せない事実が多数存在するわけだが、
旧世代は熱くならずにそれらを受け入れられるだろうか。
この辺りの事を良く見極め、下の世代に対して夢や価値観を押し付けすぎないように生きた方が良いと思う。
<生きているだけで楽しめるか?>
やりたいことが無い。あったとしても会社の外。
あまり話をしたくないし、つまらないと思ったら辞める。
旧世代では50代を超えると分からないが、やはり若い人に多い傾向に思う。
思い描いたとおりにならない以前に、
世の中が飽和しすぎたせいで、何をしたいか分からないという可能性もある中、
揶揄されたい、経済戦争に挑まざるをえなかったりと厳しい時代だが、
とりあえず旧世代の思考回路を把握し、
戦術的に、昔の人のような具体的な目標を持つといいかもしれない。
また、旧世代の全てを否定する意味はないので、
短期的、局所的と割り切って自身の糧にしてしまう狡猾さを持つと気持ちが楽にも思う。
旧世代は顕著に欲しがるが、相でなくともやはり、分かり合うためには、他人にとって分かりやすい何かは便利でもある。
さしずめ資格か、趣味か、恋か、とりあえず何かに没頭する期間を作っておくことで、
後の人生の憂いが無くなるという効果も期待できる。
一方で事実として、欲望を火にくべて、拡大拡大成長成長とはいかないのも確かであるため、
余程好きなことでない限りは、無理のない生き方そのものを模索してそれを表現することで、
徐々に理解を得ることを目指すと良いと思う。
ミニマリストなどは単語として成立してしまっているので説明も容易であるが、
旧世代にも分かる具体的な有名人をなぞる形も、理解を得られやすい。
<全ては地続きのこと>
6回に渡って幸福観の変遷を述べてきたが、歴史を俯瞰することで、他世代との摩擦は減らせるようにも思う。
また、全員横並び、総中流といった時代は特殊であり、現在の方がまだ、歴史に近い前例がある時代になってきているように思う。
何がどう変わったかを述べ、どう生きるかについて、それこそ現代よろしく抽象的で、具体的に述べた内容は少なかったが、
かくも本稿が何かの役に立てば幸いである。