窓際のおっさん26 人材育成に昔の価値観が上手く通じない背景(4/4) 仲間意識構築にも限度がある、昭和を令和へ綺麗に焼き直す
前回は、厳しい指導の難しさと、現代は少し前の時代よりも、色々と厳しい現実の中で、上司が絶対という前提での組織運用が、通用しづらくなっている背景について考察してきた。
今回は最後の項目として、会社組織での打ち解け方の最適解が変わっていること、そして全4回シリーズのまとめ的考察を述べる。
<会社で仲良く打ち解けること:打ち解けなくとも問題ないが、うまく付き合うのは必要>
かつては仕事の出来の良し悪しの前に、みんなで仲良く和を大事にという時代があった。会社がなんでも面倒を見てくれて、社員数も多かったので、面倒な関係があっても薄まりやすく、納得感も大きかったため、大雑把な世の中ならではの限定的な最適解であったように思う。
しかし平成不況とネオリベの急伸によって、選択と集中の果ての効率重視、コンプラ重視、そして人員削減と分断が進み、現状に適用すると、かえって人との距離感が詰まり過ぎた、居心地の悪い人間関係になってしまう。
にもかかわらず、平成の中頃は当然、終わりごろになっても、仕事で活躍することよりも仲良くする事の方が重視され、今もその風土は、案外小さな組織には残っている。
そうした組織では、困った上司や問題社員ともとにかく仲良くやろうねと、都合よく面倒臭い人間をターゲットにされた人に押し付けるばかりの状況が続いている現状にあると思う。
おっさんが新人だった平成20年前後のことである。
当時300人規模の、地域密着型の組織に所属していた。
飲み会を断った時「飲み会に出ないなんて変な奴だ」とグダグダ言われたことがある。面倒なので渋々出席したが、端で客先からかかってきた電話に対応していると「そういう時は電話は遠慮するもんだ」「失礼だ」などと、勝手なルールで叱られもした。結局その人はみんなから後ろ指を刺されている人ではあったのだが、上司には「うまくやってよ」とだけ言われたのを覚えている。
狭い世界で打ち解けることを重視すると、苦手な人や、面倒臭い連中とも、距離を詰めるように求めらるようになる。また、上手く馴染めずに摩擦を起こすと、怒られるのは下の立場でもあった。
「うまくやって」「悪くとらないで」
「(付き合いの悪い)コンゾー君にも悪いところがある」
昔はこうした言い訳がましいお説教を何度も聞かされたものだ。
仲良くやれれば仕事上良いこともあるかもしれないが、結局「うまくやる」と言うことを、上の人間が過剰に気持ちよくなるための方便に使い倒してきた過去があるように思う。それで回っていた時代は良かったが、今の「うまくやる」は、組織の状況や仕事の仕方の変化で結構違ってきている。
仲良しこよし、横並び大量採用の時代の価値観では「上手くやる=打ち解ける」だったが、現在では「上手くやる=摩擦を起こさない」ではないだろうか。しかしそう言うと、あくまでおっさんの感覚だが、団塊ぐらいまでの人は
「だから、摩擦を起こさないように腹を割って付き合うのだろう」
と普通に言い返してきたものだ。
その影響を受けた世代の一部には、未だに人付き合いの方法を「飲み会」などの打ち解け合う手段に求めがちに思う。
もっと人との距離の取り方も打ち解け方も、色々で良いと思うのだが、とかく手段を「打ち解ける」方向に、過去、過剰に向けすぎた結果、反動としての今の分断の加速が生まれているように思う。時代が人の成長を阻害して、非常に不器用な人間ばかりになっているように思う(人のことは言えないが)。
<形式としての昭和が昭和と揶揄される、本質としての昭和は令和でも通じる>
紹介してきたように、今では通用しない、破壊的で害悪になり果てた昔の価値観は見直すべきであると思う。
一方で、正しい苦労、正しい教育、正しい統制、正しい交際は令和であっても間違いなく重要であると思う。
誰かを偉そうに見せるだけの無駄な苦労、厳しくさえすればいいと短絡した誤った教育、一切の意見提案も調整も認めない自浄作用の欠けた統制、そして謝った距離感を強いる苦しい交流。
一つ一つ解決していくことで、苦労は不要、厳しい指導はNG、無駄は全部NG、飲み会なんてもってのほか、といった極端すぎる考え方も緩和していくように思う。
間違いなく最適点があるはずなのに、上の世代も、若い世代も自分の時代の価値観に基づいた、極端な言葉で自身を正当化し続けているのではないだろうか。
昔の価値観が通じない背景には、こうした誤解と、すぐに短絡する思慮の浅さや、徹底して状況から逃げ出す弱さ、ひっくるめて「時代が育んだ人間関係の不器用さ」があるのではないだろうか。