万次郎 ー地球を初めてめぐった日本人ー

最近の本で面白かったのは、タイトル「万次郎」です。
サブタイトル「地球を初めてめぐった日本人」
ー鎖国の日本で唯一アメリカの文明をみたジョン・マンこと中浜万次郎ー
サブタイトルに惹かれ読み始めました。
大変良かったです。 お勧めです。
鎖国の日本から見も知らないアメリカでホイットフィールド船長夫妻に巡り会い、愛された万次郎の誠実な人柄が素晴らしいです。
ホイットフィールド船長夫妻の人柄も気品に満ち、すごいと思います。
物語は、次の通りです。

漁師の万次郎は嵐で難破し、ジョン・ハウランド号(捕鯨船)のホイットフィールド船長に救われます。
物覚えも、興味もあった、ジョン・マンは船長に気に入れられ、知りたがり屋、やりたがり屋のジョン・マンとして成長してゆきます。
船長は利発なジョン・マンの才能を伸ばすためにアメリカに連れて行き、学校で学ばせようとします。
ジョン・マンは「わしは、世界を知りたい。せまい土佐より、未知のでっかい世界で、力いっぱい自分をためしてみたい。」十六歳はこう決断します。

パーレット・アカデミーを卒業し、航海士の学識、技術を身につけた。難破、漂流して5年余、アメリカに来て三年。万次郎は十九歳、たのもしい
青年に成長した。
二十四歳の時、琉球近くまでアメリカ船で来てボートで琉球(当時、鹿児島薩摩藩)に着く。
薩摩藩の殿さま島津斉彬(しまずなりあきら)は、万次郎らに興味を持ち
異国の話を聞きたいものだと、城に呼んだ。
「外国で暮らして、もっとも日本とのちがいを感じたことはなにか」
「はい、それは人間に、身分の高い、低いということがないことです」
「農民でも、職人でも、能力があればえらくなれます。それに何をいっても自由です。政府がよくないことを決めたら、それに反対することもいえます。」

土佐からは、明治維新の変革期に、重要な活躍をした人物が続出した。
それには、万次郎の進んだ知識や思想が、影響を与えていた。
土佐藩主の山内容堂は、万次郎の海外知識、英語力、航海技術などを活用したいと思った。最初は藩内の武士を養成する学校「教授館」で、まず「英語を教授せよ」との下命があった。
教授館では、日本ではじめて英語が学べるという歴史的な授業がはじめられた。
土佐では漁師の若造に反発し、授業をさぼるものが多かった。
だが心ある人は、あたらしい時代の気配を感じていた。
ふるいしきたりや考え方より、必要な知識をもとめた。
藩の重臣や知識人は、しばしば万次郎から海外の話を聞いている。
万次郎が、後藤象二郎や、坂本龍馬、岩崎弥太郎ら若者の生涯にあたえた影響は大きい。後藤はのちに、明治政府を批判して、自由民権運動の指導者になったが、万次郎が播いた民主主義の精神から芽生えたとみてよいだろう。
万次郎が土佐藩に用いられた約七ヶ月後、アメリカのペリー艦隊軍艦四隻がが来航し、通商を求めた。
幕府老中の首座といえば、いまなら総理大臣にあたる。
その任にある阿部伊勢守正弘は、国外の状況を知るにつれ、、もはや鎖国の時代ではない気がしてきた。万次郎は江戸に呼び出される。

ー幕府に意見をぶつける、それができるかもしれない。「日本を開港させ る」ための機会にしたいものだ。聞かれれば、鎖国政策は誤りだったと、考えていことをいう。それで幕府をおこらせれば、首がとぶかもしれない。

ー外国からきらわれたままでは、攻められる心配が抜けない。攻められれば 日本はひとたまりもない。日本を守るために、いま、それがいえるのは、わたしひとりだ。

ーそれだけではない。いまのままでは、世界の進歩にとりのこされる。諸外国と交流すれば、日本だってまざましく発展していけるはずだ。

ーそのために、小さないのちを犠牲にしても、勇気をもって開国を主張してこよう。万次郎は腹をかためた。

ーわが生涯で、もっともたいせつな時期がきた。この幸運を活かせ。
万次郎、おまえは日本を救える勇者ではないか。
「アメリカがいま求めているのは、開港でございます。・・・・・・・」
「それと、遭難し漂流した者に、手厚い救助を施すことで・・・・・・・」
「開国することは、人間どうしのおもいやり、人道上の・・・・・・・・」
「開国し、アメリカや世界の国ぐにと友好的になりますれ・・・・・・・」

三人の眼は、万次郎の顔から微塵も動かず、じっと耳をかたむけていたが、万次郎の誠実で真剣な話し方は、阿部、川路、江川らの胸のなかの、何かをつき動かしていた。

その後、築地に軍艦教授所がおかれ、万次郎は八名の教授の一人に任命され、勝麟太郎(海舟)のもとで、各藩からきた学生に航海術をおしえた。
万次郎に英語を学び、名をなした人に、大鳥圭介、箕作貞次郎、根津欽次郎、細川潤次郎、榎本武揚、大山巌、福沢諭吉、岩崎弥太郎、西周などがいる。岩崎弥太郎(三菱財団始祖)、森村市左衛門(森村商事創始者)らは、万次郎に「これから日本は、海外に目をむけなければ」といわれて、日米貿易の事業にかかわるようになった。

「日本は、アメリカと修好通商条約を結んだが、条約が効力をもつためには、国と国が条約を確認したとする」批准書をとり交わす必要から、アメリカ行き使節団を、幕府が派遣することとあいなった」

勝の提案であるが、使節団とは別に、日本海軍が遠洋航海の実習を兼ね、軍艦で使節の船を護衛するため、咸臨丸での渡米となる。

案内役のアメリカ海軍大尉ジョン・マーサー・ブルックと水兵10人が協力した。ブルックの日記には「万次郎は、わたしが今まで会った人のうちで、もっともすぐれた人物である。彼は、冒険心にとんだ男で、わたしは彼の生涯のおもなできごとを直接聞き出したい。わたしには、万次郎が誰よりも日本の開国に貢献した人物であるように感じとられた」
100年たった1961年(昭和36)にブルックの孫の提供により、万次郎が咸臨丸で果たした役割は、ここではじめて明るみに出たのである。

万次郎は晩年になると、ひとりもの想いにふけるとき、

ーーいまは老体をもてあますが、思いおこせば、捕鯨船のころは、けっこう敏捷にたちまわっておったものだな。

ーー藤九郎がいた島、あの島での苦労は、忘れたくても忘れられない。一番丸でいったときも、おびただしい藤九郎の群れがおったな。そして、わたしは、「ここは日本の領土だ。藤九郎の島ゆえ、島の名は、「鳥島」がよいと、「大日本属島鳥島」標を立ててきた。

ーーわたしの運命は、まことに不思議そのもの、すべて神にみちびかれた
一生であった。ホイットフィールド船長のおかげで、今日のわたしがある。
あの愛情と気高さに、わたしは、わずかでも近づけたろうか。

ーー帰国のとき、わたしは日本を開国させると、身のほど知らずの意気ごみ
だった。幸運にも、阿部伊勢守さまに意見を問われ、無我夢中でのべたことが採用されたのだ。

ーー漁師の倅が、航海術の本を翻訳したり、航海術をおしえ、近代船の建造にもかかわったり、おもえば夢のまた夢のごとき生涯であった。

1898(明治31) 11月12日、小春日和。
昼には好きな芋がゆを、茶碗に半分食べて、家人との会話も交わしていたが、間もなく、ふらっと人事不省におちいった。
そのまま眠るがごとく、71歳の生涯をしずかに閉じたのである。

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以上は、岡崎ひでたか薯 万次郎ー地球を初めてめぐった日本人
    2015年1月25日 初版

からの抜粋である。
素晴らしい人物で、感動しました。著者の書き方も、簡潔明瞭で読みやすいものでした。感謝です。





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