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飛び込むのが怖い、準備をしすぎて次に進めないひとへ

自慢にならない自慢なのだけれど、わたしは緻密な準備をしない。その結果、きちんと切羽は詰まる。でもまだ、死んだことはない。

あまり準備をしなくても、最低限の生存ラインだけは抑えている。自分にとって必要なものはわかっているし、ビッと来る直感は信頼していて飛び込むことは得意なのだ。

(親からしたらヒヤヒヤで、ちゃんとして!!と思われると思うし、何度も助けてもらいました。ありがとうございます。ごめんなさいッ!)

なぜこんな話をしているかというと、先日フォルケホイスコーレで事務をしている友達が「日本人はなんで、授業中は全然質問しないのに、入学前はやたらめったら質問してくるの?」と言っていたからだ。

つづけて「そういう詳細が気になるくらいなら、まだその人は留学できる器・タイミングじゃないと感じる」的なことを言っていて、もっとドーンと構えなさいよといったニュアンスを感じ取った。

たしかに〜と思った。人の体験談を事前に読むことは意味があると思うし、持ってきた方がいいものは知りたい気持ちもわかる。

でも飲食店に行くと決まったら全てメニューを事前に確認して、席もあるか確認して、その席やイスがどんなか、座り心地や使っているも確認して、当日の食べ物はどれくらいかかりますか?何分前から入れますか?って聞くひとのように見えているのかもしれない。

わたしは「行ったらわかるっしょ」と気に留めなさすぎて、大丈夫ですか?と聞かれることで逆に「え、何か準備した方がいいですか?」と焦るタイプなのだけれど、

「行ったらわかること」であっても、知りたい気持ちがあるのは、緻密な日本人の国民性のひとつかもしれないな〜と思う。授業中質問しないくせに、というのはあまりにも皮肉だけれど。

実際、地球の歩き方を見たスロバキア人の友達が「え、情報載りすぎじゃない?これだけ情報がある状態で旅行して、人が経験したところをなぞるだけで楽しいの?」と言っていたのを思い出した。

なぜこんなにも、事前に知りたがるのかと言ったら、きっと「失敗したくない」みたいな気持ちがあるのだろう。

旅行や飲食店でさえ「失敗したくない」と思うのは、なぜなのだろうか。それも面白いねー!と楽しめないのは、かける熱い思いがあるのだろうか。

それもあるだろうけれど、どちらかというと「失敗したら社会に戻れない」みたいな感覚が、あまりにも大きく潜在的に刷り込まれているのではないだろうか。

そういう構造に囲まれて育ってきた結果、自分の行動に自信が持てなくて、なんでも確認し安心したいのではないだろうか。いわゆる「社会のレール」みたいなものから外れてしまうと、戻れない。戻るのが難しい。

だからどんなに小さい失敗も防がなければいけない。そのために、日常生活が「慎重」に進められているのかもしれない。

なぜ社会に戻るのが難しい(と感じる)のかというと、日本には「中間」が少ないからだとおもう。引きこもりか精神病院か、介護施設か自宅か、無職か定職か、とか。全部にもっと「中間」があるはずなのに。

新海誠監督の「君の名は」という映画で、「かたわれどき」という造語が出てくる。これは黄昏どき(つまり夕方)を指す言葉で、この「かたわれどき」しか二人は会えない。入れ替わっている「片割れ」もかかっている。

この「昼」でも「夜」でも、どちらでもない時間。映画ではこの時間がキーとなっていて、この「かたわれどき」から覚めたあとの手を開くシーンでは、毎回泣く。(超絶余談)

言いたいのは、この中間にこそ、大事なものが見えるのではないかということ。「中間」が見えづらい社会だけれど、そこが意外とボリュームゾーンなんじゃないかと疑っている。そこに日本でのビジネスチャンスのヒントが、結構ある気もしている。

いま、何かに飛び込むのが怖いひとや、事前の準備をしすぎて全然次に進めないひと。「中間」が見えづらいこの社会だから、失敗は大敵に思えるかもしれないけれど、意外と「中間」は与党だ。簡単に「失敗したっていいさ!」とは言わない。でも、楽しむことを忘れないで。

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