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うつくしい言葉たち/J.R.ヒメネス『プラテーロとわたし』
こんにちは!
此島このもです。
今日は私の大好きなロバ、プラテーロを紹介します!
見出し画像のロバがうちのプラテーロです。
プラテーロはやさしい、けれども一本筋の通った強い意志が宿った目をしていて、身体中ふんわりやわらかい毛むくじゃらちゃんなんです。
私がロバを好きになったきっかけは『プラテーロとわたし』です。
『プラテーロとわたし』はスペインのノーベル賞受賞詩人ヒメネス(ヒメーネスとも)の詩集です。
私はヒメネスの詩を通して言葉のうつくしさとはどのようなものかを学びました。
今回はそれを書いていきます。
ギターと聴くプラテーロ
私が『プラテーロとわたし』を知ったのは大学の講義でした。
M.C.テデスコという作曲家が『プラテーロとわたし』の朗読に合わせるために作ったギター曲があります。
日本語の朗読と曲を合わせたCDがあり、講義でそれを聴いたのでした。(CDでは朗読のために日本語訳されたものが採用されています)
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一度で引き込まれました。
言葉のうつくしさ。詩の世界を頭に流し込んでくる音楽。
私はうっとり聞き入りました。
このCDとの出会いが私の本の読み方を変えたと言えるかもしれません。
もともと本は好きでした。
しかし、それまでの私にとって言葉は言葉でしかありませんでした。言葉はただ事実を書いていると思っていたのですね。
例えば「赤いりんごがある」。
この文章を見て何か思うところはありますか?
もし「赤ちゃんのほっぺのようにふんわり赤いりんごがある」ならどうでしょう?
「燃え盛る炎のように赤いりんごがある」なら?
「毒ガエルのように赤いりんごがある」ならどうでしょうか?
今の私は、それぞれ違う印象を受けます。
「赤ちゃんのほっぺのようにふんわり赤いりんご」はいわさきちひろの絵を連想します。水彩のぼやけた雰囲気とか子供をモチーフにしているところとかがぴったりで、そのりんごはなんだかみずみずしく美味しそうだし、優しい味がしそうだし、食べると無垢な気持ちになるかもしれません。
「燃え盛る炎のように赤いりんご」は、情熱をイメージします。この表現をした人(語り手)は、恋人に会った直後なのかもしれない。恋しい人となかなか会えなくて悶え苦しんでいるのかもしれない。もしくは、芸術家が作品を作っている最中のおやつなのかも…そんなことを考えちゃいます。
「毒ガエルのように赤いりんご」は、絶対食べちゃダメなりんごですよね。これが出てくると誰かが他人を陥れようとしている場面なんじゃないかと勘繰ってしまいますね。そういえば赤は警告色でした。何か危険が迫っているのかもしれません。
つまり、当たり前なんですけれども、言葉には読んでいる人にそのものをイメージさせる力があって、文章というのは読んだ人が何をイメージするかを考えた上で作られているんですね。
ところが『プラテーロとわたし』に出会う前の私は、文章を見てもただ事実を書いているだけなんだと思っていたのです。
だから上記のようなイメージは全く持ちませんでした。
当時の私にとって赤ちゃんのほっぺのようなりんごも毒ガエルのようなりんごも、単にそういう色をしているだけの代物でした。
そんな私の固定観念を変えたのは「すっかり琥珀でできたようなマスカットぶどう」です。
琥珀でできたようなマスカット????
それがどんなものなのかわかんない…
わかんないけど、頭に浮かんでくるイメージが、すっっごくきれい!!!
一度そのうつくしさに気づくとあとは夢中でした。
好物はみかん、すっかり琥珀でできたようなマスカットぶどう、すきとおった密※のしたたる紫のいちじく。
この部分が特に好きです。
ここのギターはプラテーロがムシャムシャ食べている様子を表現しています。
このギターの「詩の世界をイメージさせる力」とでもいいましょうか、頭の中に言葉を流し込んでイメージを喚起させる力が、本当にすごいんです。
朗読と一緒に聴くと頭の中が
みかんのオレンジ、琥珀のまったり透き通った金色、マスカットの爽やかな黄緑色、みずみずしく紫の果汁をしたたらせる赤いいちじく
とめくるめく綺麗な色でいっぱいになってしまいます。
そんな世界が頭に広がったら、そりゃあうっとりせずにはいられないでしょう?
この曲は本当に詩と雰囲気がぴったり合っていて、「ああこのメロディはプラテーロの軽やかな足音を表現しているんだな」とか「この音はプラテーロの名前を呼ぶ声をイメージしているな」と感じることができます。
それから「すっかり綿づくりで、骨などはなさそうにふんわりしている」プラテーロにもかたい要素があって、
・かたいのは、ふたつの目の黒耀石の鏡ばかりーー
・でも、芯は石のように堅くて強い。
・「はがねのようじゃのう。」
この3箇所は決まってギターが低めの和音をふたつ鳴らすんですよね。
詩の他の箇所はプラテーロの優しさややわらかさ、ふわふわした要素が書いてあります。
他がふわふわしている中でプラテーロの「石のように堅くて強い」部分が登場するので、プラテーロの多面的な魅力が引き立ちます。
スイカに塩、カレーにりんご、そういうやつです。
違った要素が出てくるからこそ双方が引き立つのですね。
そしてギターも、ふわふわの部分とかたい部分でメロディが異なっているのでよりいっそう違いが強調されて聴き手の頭に届きやすくなるのです。
CDと同じ翻訳ではありませんが、YouTubeに朗読があったので聞いてみてください☺️
曲は同じです。
本で読むプラテーロ
プラテーロに夢中になった私は書籍を買い求めました。
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長南実訳の岩波文庫(2001)と、理論社の伊藤武好・伊藤百合子訳(2011)の2冊です。
(今は波多野睦美訳も出ています)
より現代の言葉遣いに近く親しみやすいのは理論社の翻訳だと思いますが、訳注が充実しているのは岩波文庫の方です。また、2冊を比較することで理解が進むと思いましたのでどちらも購入しました。
例えばプラテーロが村びとたちに褒められる部分は、
・CD 「はがねのようじゃのう。」
・岩波文庫 「筋金入りじゃ……」
・理論社 ーーはがねのようだね……
となっています。
「はがねのよう」がプラテーロの何を指しているのかわかりづらいのですが、岩波文庫の訳注には
体は鋼鉄のように強靭で、やわらかな毛並みは明るい月のように銀いろである。
とあり、村びとたちがプラテーロの肉体の強さに注目して「はがね」と言っていることがわかります。
肉体の強さを金属に例えられるなんてまるでボディビルダーのようですね。
「身体が鋼鉄でできてんのかい!」
そのような褒められエピソードを詩に織り込むのは、プラテーロの鋼鉄のように強靭なところへの愛を感じます。
そして私はこれを読むと自分の飼っている猫のことを思い出します。
猫は普段おとなしく丸く寝ていても、獲物を追う時になると力強く飛び跳ねるんですね。猫の小さくてふわふわでやわらかい肉体のなかにもそのような野生味が宿っているのです。
私はそういうワイルドさも生き物を構成する一要素だと思っているので、プラテーロの詩にそのような面が描かれていることを嬉しく思います。
他にも、『プラテーロとわたし』は人間を描いた詩も魅力的です。
「36 三人のおばあさん」では年老いても勇気をもって生きるおばあさんの強さ、うつくしさが
「41 ダルボーン」では漫画のキャラクターのように愉快な人でも深い悲しみを持っていることが
「127 レオーン」では着飾って音楽会に出る人間が、生きるためにきつい職業に就いていることが描かれます。
単純な人間なんておらず、皆それぞれの苦悩や喜びを持ちそういうものを全て抱えたまま日々を生きている、その強さを思わせてくれる詩です。
また、『プラテーロとわたし』には“死”をテーマにした詩もあります。
私はこの詩集が、死のように現実に確かに存在するつらいことにも目を背けず取り扱っていることが素晴らしいと思います。
面白いこと、楽しいこと、嬉しいことと同じように、つまらないこと、悲しいこと、つらいことも確かに存在するからです。
『プラテーロとわたし』の魅力はそこなんだと思います。
物事のさまざまな面が表現されていること。
そして、さまざまな面が描かれているからこそ、プラテーロや人々のうつくしさ、やさしさ、そして強さが引き立つのだと思います。
最後になりましたが、これを読んでくださっている方はたぶん詩のお好きな方だと思いますのでコメントでおすすめの詩を教えてください!
本は読み手の状態によって感想が「わかる!」になる場合と「うーんわからん」になる場合とに分かれるものですが、詩は特にそれが顕著だと思います。
タイミングが来ていなければピンとこないし、来ていれば猛烈に好きになるという…。
どんな詩が今の、そしてこれからの私にピンとくるかわかりませんので色々読んでみたいです。よろしくお願いします😊