「君の膵臓をたべたい」にまつわる
「君の膵臓をたべたい」。
渋谷のあおい書店の大きなポップアップを横目に見ながら、当時親しくしていた人の家へと急いだ。数年前。冬だったと思う。
とある企業の経営者だった彼は「君の膵臓をたべたい」なんて、口にしなければ視界に入れることすらしないと思っていた。彼の本棚には賢そうな本がたくさん並んでいた。
その日の夕食、ひょんなことから「君の膵臓をたべたい」の話になった。そういう話もするんだ。
いま、現在の恋人の家に「君の膵臓をたべたい」があって、ひとりで読んでいるところ。彼の本棚もまた同じように、むずかしい本が主なのだけど。
予想どおり、セカチューや美丘みたいな展開、読みやすくちょっと変わってる振り切れた女の子。至って普通。何の変哲もないかんじなのに、流行ったのはなぜだろう。
恋人もこれが流行った当時、昔の恋人とこの本の話をしたのだろうか。彼が今まで築いてきたたくさんの人間関係を愛しく思うし、時々うらやましくもあります。私は彼の幼馴染にもなりたいし、中学高校のクラスメートにもなりたいし(プリント後ろに回したり、プールの後の眠たい授業で窓辺で寝てたら起こされたりしたい)、大学のサークルで一緒にもなりたいし、バイト先やインターン先で一緒に仕事もしてみたい。そうやって時々思いながら、昔の話をして。って言います。
人のこと好きになれてうれしいから、あんまり嫌いになるような行動とらないで。と思うし、そういうのはお互いどんどん伝えて話し合っていくのがいいなあ。相手のことは変えない、なんて変。どんどんお互い成長していかないと、意味ないよ。
昔の経営者の彼とは、そういう労力や気力をかけるのをサボって、だめになっちゃったから。
誰かと心を通わせること(とその類)が、生きることだって「君の膵臓をたべたい」にも書いてありました。私もだいたい同じように思ってます。影響しあって生きていくことの愉しさよ。それが醍醐味でしょ。
急に雨が降ってきた時の、傘を買うお金にします。 もうちょっとがんばらなきゃいけない日の、ココア代にします。