親父の背中は、何も語っちゃいなかった。
まずは25年前のクリスマス、この世に私が生を受けたその瞬間の話をしよう。
その日はとても大雪だったらしい。
雪が積もり過ぎて兄が埋もれたという話は今でも聞かされているのだが、そんな状況下で救急車を呼んでもなかなか来る筈もなく、病院に辿り着くかそれとも私が生まれるかという瀬戸際の中、なんとか私はギリギリまでお腹に収まっていたという。
母が私を腹に抱えながら悶えている最中、父は何をしていたかと言うと、呑気に趣味のテニスを興じていたらしい。そんな奴があるか。
この話を聞いた時、私は腰が抜ける程驚いた。全く、その時代にSNSが発達していなくて本当に良かった。母が一言愚痴を呟けば、きっと昼間のワイドショーに取り上げられる程炎上していたに違いない。そうして私は『炎上した親を持つ赤ちゃん』とラベリングされて、将来母から寝かしつけの時間、「貴女が赤子の時、お父さんはSNSで炎上したのよ」と聞かされるのだ。良い夢なんて見れたものじゃない。
幸い母が当時を話す際、聞かされるのは「丁度クリスマスケーキが食べれなくて悲しかった」という何とも申し訳無いエピソードくらいだ。
母も正気じゃ無かったお陰で、今日も我が家はなんとか形を保っている。
お察しの通り父は、私が生を受けたそのずっと前から、既にロクデモ無かった。
そんな父と2人で出かけた記憶が、本当に驚くことに人生で1つだけしか無い。
それもその筈で、父は平日仕事が終わればテニスに行って、休日朝起きたらテニスに行くような人だったのだ。
いっそプロのテニスプレイヤーを目指しているのなら、幼心に「お父ちゃんがんばれー」とも言えたものだが、父はごく普通のサラリーマンである。
何故だかあの日は兄が居なくて、父と2人で神戸の遊園地に行った。私はまだキティちゃんの腕時計をしていた気がするので小学校の低学年かそれくらいだったように記憶をしているが、何だか居心地が悪く照れ臭く、幼いながらも遠慮をしていたような気がする。
たった1人で、他の乗客も居ないバイキングに乗った記憶だけは鮮明に覚えている。バイキングというと、船の形をした乗り物が直角近くまでブラブラと揺れるアトラクションであるが、私が大きな船に揺られている中父は下からこちらを見上げて、「おーい」なんて言っていたような気がする。全く残念な結果ではあるが、私が鮮明に覚えているのは「楽しかったから」では無い。あんなもの1人で乗らすな。
今でも父は「ひよことは昔遊園地に行ったんだー!なー!」と楽しそうに話し掛けてくるのだが、父の口からもその武器1つしか出てこないので、2人で出かけたことは本当に1度しか無かったのかもしれない。それを気付いた時、自分で驚きはしたが悲しさは無かった辺り、私は今も父に懐いていないようである。
しかし実は「何故か覚えている記憶」は遊園地の話では無くて、父を追いかけていたあの頃の方である。
幼少期、私はよく家の下で幼馴染と遊んでいることが多かった。石と砂しか無いような市営の団地下で、私たちは永遠に遊んでいられた。そして休日に遊んでいると、時々出掛ける為に降りてきた父と遭遇するのである。勿論父はその日もテニスに出掛けて行くのだが、何故だか家で見送るよりも、外で話して別れる方が随分と心細くなるので不思議なものである。あんなにも父に関してそっぽを向いていた私は、その時だけは別れが恋しくて仕方がなくなり、駐車場のギリギリまで父を見送りに行ったのであった。何だか置いていかれるような、切ない気持ちになるのだ。
その時父を追いかけていたことを、何故だか未だにはっきりと覚えている。父は私がそんな気持ちになっていることも梅雨知らず、テニスラケットを片手にヘラヘラと出掛けて行くのだが、あの後ろ姿は遊園地に行った思い出よりも、随分と濃く私の記憶に残っているのである。
父と遊びたかったのだろうか。もしかして「おう、一緒に行くか?」なんて話し掛けて欲しかったのだろうか。父の背中には何も書かれていなかったけれど、子どもの私は無意識に父の愛情を追い掛けていたに違いない。
今なんて連絡すら全くし合わないというのに。
でもそれで良いと思っている。こんなロクデモナイ父の話を笑い話に出来るのは、良い意味で仲良過ぎない証拠なのだ。だって、あまりにも理想の父親像から離れているし、私が父に対して強く理想を掲げていたとすれば、きっと父の存在を恥じて今よりもっと嫌悪感が溢れていたに違いない。こうしてお互いが距離を保つことで、私達は上手くやって来ているのである。(少なくても私は)
因みに父は学生時代、母とデートをしている時に母に想いを寄せている同級生から靴を投げられたことがあるらしい。
そんな父親、本当にどうかと思う。父には沢山のロクでもないエピソードがあるのだが、それでも家族で笑い合っていられるのは、誰も父に対して「カッコよくて渋い親」の像を投影した事がないからである。私たちの父親は、もう随分と昔から「ダサくてロクでもない」父親で許容されているのだ。それが私たちの家族の形として、既に完成されているのである。