おじいちゃん、今までありがとう。

今日は、祖父の命日なので祖父について書こうと思う。(とても長くなると思います)

両親が離婚しているので母方の祖父しか知らない。
小さい頃の祖父に対する印象は、頭がつるぴかで怒ったら怖い人、だった。
一度、いちごの食べ方でものすごく怒られた記憶がある。

そんな祖父とわたしだけど、祖父の子どもである母や叔母、叔父ではできなかったことをわたしは成し遂げたらしい。
それはつるぴかの祖父の頭をぺちぺちと叩くこと。幼い頃のわたしはよくそれをしていて、母たちに「そんなこと私たちならできないわ〜」と驚かれていた。

小学生に入ると、わたしが帰り着く前に、たまに祖父が来ていて、玄関の隙間に置き手紙が。
「洗濯機の中にお菓子入れておいたよ」
その手紙を見つけるといつもワクワクしていた。
外置きされていた洗濯機に袋いっぱいに入っているお菓子。今思えばあんなにたくさん、結構な頻度で持ってきてくれていたなんて、なんて優しい祖父なのだ。

大学一年の冬、少し前から病気だった祖父の様子が急変したと、残り1週間くらいかもしれないと医師から伝えられた。
地元を離れて大学に通っていたわたしを母がその日のうちに迎えにきてくれた。
大学も欠席し、慌てて祖父のいる病院へ向かった。その頃はギリギリコロナも流行る前で、祖父の病室で小さい千羽鶴をたくさん作っていたなぁ。

そんな危ない時期もあった祖父だが、奇跡的に生き延びて、わたしが社会人1年目の冬まで約4年間頑張ってくれた。
最期の日の前日、わたしはたまたま仕事が休みで、朝から夕方までずっと祖父のいる施設にいた。祖父は水を自分で飲むのも大変そうで、水を飲ませたり、体の向きを職員の方と変えたり、そんなことを手伝っていた。
病院の先生が夕方に様子を見にきた時、「肺にまた穴が空いてしまっています」と告げられた。
次に穴が空いたときはもう長くないと思え、と叔父に言われていた。
明日、手術をするか、ごはんも食べられていないから点滴のような栄養剤を準備するかなど、様々な話をされていた祖父。
「もう、つかれた」
と途切れ途切れに一言。
その言葉で涙が溢れそうになって、見られないよう外に飛び出した。

約10年間、病気と闘ってきた祖父。
祖母も驚いたようなショックを受けた顔をしていた。
祖父は長くないと悟ったわたしは、「今日のうちに会っておいたほうがいいと思う」と母に告げ、仕事終わりの母を迎えに行き、祖母も、母も叔母も叔父も集合した。
寝る時間も迫っていたので、少しの間だけ一緒に過ごして、「また明日くるね」と告げて帰った。
そして次の日の朝、仕事に行く準備をしていたら、母の携帯に叔父から電話が。涙声の叔父に「父ちゃんが、、」と言われたという母。何かあったのだと、すぐに職場に連絡し、その日は休むことに。急いで母の運転する車で向かう。
どうにか、間に合ってほしい。
その思いで車を走らせた。
施設に到着した時にはもう、親戚のお兄ちゃんが先に来ていて、中に入ると涙目の叔父が。
祖父の手を握ると、まだ、あたたかかった。
一気に涙が溢れてきて、しばらく止まらなかった。

ついに、この時がきてしまったか。
覚悟はしていたものの、はじめて身近な人を亡くし、こんなに辛いのだと知った。
人前で涙することが苦手なわたしは、葬儀の時も泣かなかった。泣けなかった。
遺影はわたしがイチオシして決まった、わたしと祖父の写真を切り抜いたもので、笑顔の写真だった。
小学生である3人のいとこたちが、ボロボロと涙を流す姿は本当に見ていられなかった。

火葬場の関係で葬儀まで少し時間があったので、みんなで祖父への手紙を書いた。
祖母と再婚してわたしのおじいちゃんになってくれた祖父。
血が繋がっていないのに、こんなにたくさん愛情をくれてありがとう。
これからもみんなを見守っていてね。


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konoka
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