【遷移のヨーガ】瞑想、ヨガ、「霊性」によって向き合いたいという個人的願望。ポワの瞑想
投稿するにしても読むにしても注意が必要な内容かもしれません。
安易で不謹慎な内容である可能性があります。
いろいろと気にして、noteにしておきたいと思うことの半分以上を省きました。(それでも長文ですが、、)
バッハ BWV106 教会カンタータ『神の時こそいと良き時』
遷移
ここで言う遷移というのは、つまり『死』のことです。(以下、遷移)
「遷移のヨーガ」というのは、明瞭な意識をもって自発的に遷移に向き合うという意味を込めています。
こういったことに関する議論・話題はとても繊細だったりハードだったり、場合によっては不謹慎だったりします。
社会的・倫理的に好ましくない主張をする人もいます。
しかし今このnote記事では、そういった議論に加わることはしません。
このnoteにあるのは、私の実に主観的な、感情的要素によるもので、個人的に、自分自身の体験において望むこと、というものです。
社会問題を扱ったものや、深い見解、高尚な見解の紹介などは一切ありません。
あと、読者にとって有意義な結論があるわけでもないです。だらだらと自分の思うことを書き連ねただけの幼稚なものです。
念のため、、こういった話題全般に不快感を抱く方は、これ以上は読みすすめないようにして下さい。
関連note
自覚的な意識を持って迎えたい
以前から、私自身は自分自身の番になったら、文字通り「往生際が悪いのは嫌だ」とずっと前から感じていました。
さらに瞑想が習慣になり、特にチベット仏教関連の本を読むようになり、それらの影響のせいか、、、
「誰もが迎えるものであり、自分自身もいずれは迎えるものである遷移の体験を、恐るべきもの・忌むべきものとする以外に捉えることはできないのか」
「もし遷移を忌むべきものとする以外に捉えることができるなら、この此岸で生きるということに対しても、生命に対しても、より一層、生々しく向き合おうと思うようになるのではないか」
「私自身は積極的な体験として、自覚的な意識を保ったまま遷移の体験を迎えたい」「できれば遷移の体験を意識体験としては、むしろ素晴らしいものにしたい」
「瞑想中に遷移したい」
、、、などとと思うようになりました。
体験 ―― チベット仏教、臨死体験などでは
瞑想やヨガなどにより、精神的、宗教的(霊性的)な態度でこの遷移の体験に向き合いたいと思うようになりました。
チベット仏教など
チベット仏教ではこれに関して、いろいろと説かれています。
解脱、六道輪廻(輪廻転生)、バルド(中有/中陰のバルド)、、、といった思想が登場してきます。
Wikipedia:中陰(バルド)
参考:六道輪廻図(シーペイコルロ)
たとえば悪行ばかりの人生を送ると、ひどいバルドを経験して、悪い輪廻転生になるという思想があります。
一方で本格的な仏教修行、瞑想修行や特に密教的な修行を積んでいると、バルドの時に上手く振る舞えるなどということも説かれています。
関連note:ヨガのスシュムナー(中央気道)とは。クンダリーニ、バルド、空性大楽
ちなみにカルマ(業)によって輪廻転生が決まるという思想は、仏教以外にもインドの宗教や、それ以外の宗教、神秘思想、スピリチュアルなどにもありますね。
詳しいことは分かりませんが、初期のキリスト教にもあったという説があるようです。
スピ系では『シルバー バーチ』とか『エドガー ケイシー』などがカルマと転生説で有名のようです。
臨死体験
遷移の体験としていいのか分かりませんが、臨死体験者によっても、いろいろなことが言われてます。
特にキリスト教圏の臨死体験者の報告には個人的に興味があります。
要約すると、、、
神や天使のような慈悲深い存在と一緒にいて、走馬灯のようなライフレビュー(人生回顧)があった。
悪意や自己中心的な行動などで他者を傷つけたことに関しては、神や天使のような存在は悲しみ、反省を促してきた。
利他的な行動に関しては、それがたとえ一杯の水や一つの言葉のようなどんなに小さな、ささやかなことであったとしても、とても喜ばれ賞賛された。
社会的な地位、経済的な成功など、世俗的・物質的な成功については、ほとんど関心が持たれなかった。
人生で過酷な経験があった場合には慰められた。また、そのような境遇での忍耐や努力は賞賛された。
、、、のようなものです。
遷移のヨーガ ―― 生と死のヨーガ
まぁとにかく私としては、今のところは、チベット仏教などの宗教的・神秘的な価値観を共有できてはいません。
しかし瞑想や、特に密教的な、生命エネルギーの実践者らによっても、いろいろなことが言われていますが、遷移の体験の時に、独特な意識体験があるのかもしれないなぁと思っています。
たとえ臨終間際の脳ミソの作りだす幻覚であったとしても、臨死体験やバルドの体験として伝わっているような意識体験があるのかもしれないなぁと思っています。
私が変人なだけなのかもしれませんが、この遷移の時の意識体験を素晴らしいものにしたいという望みがあります。
瞑想やヨーガの実践は、これに役立つかもしれません。
また、遷移の時には自分自身の意識の内にあるもの、潜在意識、無意識といった領域にあるものが顕れてくるのかもしれません。
「内なる意識」とか「霊性(スピリチュアリティ)」などと言っても良いようなものに直面するのかもしれません。
ヨガや仏教の思想では、意思すること、行うことによって、心においても業が積み重なると言われています。
遷移の時の意識体験では、自分自身の生き様で積み上げてきたものに直面するのかもしれません。
なので、善い意志と心を持って善く生きるということが必要なのかもしれません。
つまり死の体験に向き合うという、遷移のヨーガは、生きるということにも向き合うことであり、「生と死のヨーガ」「生命のヨーガ」「生命(生死)を貫くヨーガ」とも言えるのかもしれません。
遷移の体験を素晴らしいものにしたいと考えるような変人は、そんなに多くはいないと思いますが、瞑想とかヨーガとか精神世界とかやっている人で興味ある人は、善く生きることを心がけるべきなのかもしれません。
「悪を避け、善を行い、己の心を清めよ。これこそが諸仏の教えである」というわけです。
関連note:愛(慈悲、四無量心、利他・愛他)の実践。イエス・キリストの物語
コンスピカルトに注意
あと、スピ系の人に呑み込まれている人が多い印象ですが、コンスピカルトには近寄らないようにしてください。
あれは明らかに人心を蝕む魔境であり、霊性の道を汚染するものです。
もし本当に霊的、心霊的な存在がいるとするのなら、コンスピカルトの背後にはナントカクリニックだけではなくて、それ以上にヤバいのがいそうです。
コンスピカルト連中らから発散している不気味な瘴気が分かりませんか?
引きずり込まれて憑依されないように注意して下さい。
↓↓凄い。何ひとつイベントが現実に起こってない。全部嘘、妄想。
「“陰謀論”という言葉は真実を隠すために、やつら(CIA他)が作った陰謀なんだぜ!!」みたいな中二病を言う人がいますが、やっぱり、陰謀論はそのまま陰謀論ですね。
参考:
ヒトラー・ナチスも、ユダヤ陰謀論とオカルト人種論・世界観の合体したコンスピカルトの影響を強く受けていました。
それで人類史に残る悪業を行ったわけです。
これについて、インドの有名なヨーガ指導者、相当な瞑想修行者で、いろいろと霊能力のような不思議な話も伝わっているオーロビンド・ゴーシュに、「ヒトラー・ナチスは邪悪なものに憑依されている」という内容の発言があります。
関連note:シャクティーパット? アドルフ・ヒトラーの霊力!? 生命エネルギーのサイキックな現象
昨今のコスピカルトにハマっておかしくなっている人には、本当に良くないものに憑依されている人がいるのかもしれません。
ちなみにですが、スピ系の詳しい人に聞いたことがあるのですが、「透視リーディング」で有名なエドガー・ケイシーは、その透視リーディングではヒトラーの表舞台登場初期の頃は「ヒトラーはドイツの経済と政治の立て直しに非常に良い。ドイツに希望をもたらすだろう」みたいに高評価していたそうです。
カール・グスタフ・ユングは「ヒトラーは導かれている」みたいなことを1938年に述べました。
不思議なことにエドガー・ケイシーの透視リーディングでも、このことが肯定されているそうです。
ユングの指摘よりも数年早く、1930年代前半に ある人が「ドイツのヒトラーは霊的(psychically 心霊的、超自然的)に導かれているのですか?」と質問したら、透視リーディングは「霊的に導かれている」と肯定したんだそうです。
しかし徐々に透視リーディングのヒトラーへの評価は下がっていき、「力を誤用するな。野心を持つべきではない」「極端で間違った方向に行きかねない」のような警告めいたものが多く含まれるようになっていったそうです。
そして実際にヒトラーがドイツの政治・経済・軍事を立て直してからの、ユダヤ人など迫害、ズデーテン割譲要求と併合、チェコスロバキア解体、そしてポーランド侵攻のあたりのエドガー・ケイシーの透視リーディングではヒトラーについては最悪の評価で「ヒトラーはもう駄目だ。破滅しかないだろう」というもになったそうです。
関連参考:ヒトラーのズデーテン割譲要求演説
関連参考:ミュンヘン会談
そしてナチスドイツと戦う兵士として欧州戦線に向かう人への透視リーディングには「これは正義のための戦いであり、勇敢に戦いなさい」というようなものがあったようです。
たしか、シルバー・バーチの方は反戦・兵役拒否がすすめられていたような記憶があります。(あんまり覚えてない。間違っているかもしれません)
一方でエドガー・ケイシーの方は、独特な個性があるなぁと思いました。
脱線しましたが、とにかくコンスピカルトは駄目です。ヤバいです。
気を確かに持ち、文殊利剣によってコンスピの無明を打ち払うようにして下さい。
「人生とは巡礼みたいなものなんだ」というのを何かで聞いたことがあります。
ということで、リヒャルト・ワーグナーの『タンホイザー』から「巡礼の合唱」。
ポワの瞑想(マハー・サマディー)
チベットの仏教やボン教にはポワという瞑想法があります。
これはチベット密教では非常に有名な「ナーローの六法(ナーローの6ヨーガ)」の修行体系にもおさめられています。
ポワとは「(意識、生命エネルギーを)上に引き抜くこと」という意味で、「遷移」「転識」などと訳されます。
観相やマントラ、呼吸法を用いて、意識・生命エネルギーをホトケの浄土に向けて頭頂から引き抜くというものです。
ポワの瞑想のやり方は流派・指導者や修行者の段階によって違いがあるようです。
簡単な解説は『虹の階梯―チベット密教の瞑想修行』(ラマ・ケツン・サンポ 中沢新一 平河出版社)、『チベット密教 図説マンダラ瞑想法 』(ツルティム・ケサン 正木晃 ビイング・ネット・プレス)『増補 チベット密教』(ツルティム・ケサン 正木晃 筑摩書房)にあります。
私も詳しいことは知らないのですが、、、
凡夫は「方便」によって
初学者は「生起次第(キェーリム)」によって、
上級者は「幻身」によって、
高度に習熟した修行者は「光明」によってポワを行う。
、、、などと言われているようです。
インドのヨーガでも同じようなものがあります。これは「マハー・サマディー」などと呼ばれています。(マハー・サマディーには「死」の意味もあります)
修行で非常に高い段階に至った高僧が自らの死期を悟り、ポワの瞑想で遷移をすると、香気と光明が生じるとか、身体が虚空に消失するとか、身体が縮む、空に虹色の光の輝きが発生するなどの不思議な話が伝わっています。
(「虹の身体」のグリーンターラー菩薩)
ラマ・ケツン・サンポ 著『知恵の遙かな頂』(中沢新一 訳 角川書店)にも逸話が載っています。
死期を悟った高僧が、中国人民解放軍が迫ってくる中で、寺院の一室にこもり瞑想に入りました。
そして中国軍の兵隊が寺院に到着して、その高僧を逮捕しようと探索し始めた時に、高僧のこもる部屋から かけ声のようなものが聞こえてきました。
すぐにその部屋に突入すると、既に亡くなった後だったというものです。
中国軍の兵隊は怖くなって退散したようです。
この部屋から聞こえた高僧のかけ声は、ポワの瞑想で生命エネルギーを頭頂から引き抜く時に用いる「ヒック!」などの発声だとされます。
ポワ、マハー・サマディーの技法による意図的な遷移には、いったいどういった神経生理のメカニズムがあるんだろうかと気になるところです。
こういった方法には、ひょっとすると「サンターラー」のようなことも、同時になされるのかもしれません。
余談
大威徳明王の発展系とされ、チベット仏教では文殊菩薩の化身とされるヴァジュラバイラヴァ(ヤマーンタカ)↓↓
死と冥界をつかさどる神であるヤマをも討ち滅ぼすとする忿怒尊です。
このホトケには恐ろしげなことが言われていて、度脱法(ドル)つまり凄まじい呪殺法の本尊としても知られているようです。
一方では延命長寿法の本尊とされることもあるようです。
ヴァジュラバイラヴァは生と死を貫くホトケとも言えるのかもしれません。
私には、ヴァジュラバイラヴァの姿形は、やり過ぎ感がありすぎて、なんでこうなるの?って感じです。
ちなみに、他にやり過ぎ感があるなぁと思うホトケは、「ラーフ」です。
凄いです。
占星術の「ラーフ(ドラゴンヘッド、羅睺星)」と「ケートゥ(ドラゴンテイル、計都星)」のラーフに関係するホトケです(チベットでは、ラーフとケートゥを一体とする考えがあるようです)。
占星術的な災厄を取り除く儀式の本尊とされることがあるようです。
チベット仏教では他にも獅子面のダーキニー(黒魔術からの守護、呪詛返し、邪霊調伏の本尊)など、仏教やチベット、ダライ・ラマ法王や高僧を守護し、敵を調伏するとする数多くのおそろしいホトケたちが登場します。
でも、まぁ、どうしたわけだか、中国共産党や人民解放軍の前では全く存在感が無かったわけですが、。