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私なりの無記・中道の模索③ 「内なる意識」の信仰。内なる霊性

前回↓↓からの続き

生物学的な信仰?

ひょっとしたら唯物還元論(唯物論)が真実なのかもしれません。人間の生、行うことには究極的な意義や霊的な意味などないのかもしれません(私なりの無記・中道の模索①)。

しかし生物学的には人間には「生存本能」、生きようとする意欲、生への衝動・欲求はあると考えられます。
またこれは不快を避け、快を求めることに直結するものです。

特に人間の場合は脳ミソが発達しているため、この生存本能の表現には他の動物と比べても情動・情操(精神性)や、さらに知性的なものまでも豊かにともなうだろうと考えられます。


人間にとっては生きようとする本能・欲求は、実際に叶えられるかどうかは別としても、幸福を求めることであり、喜び――歓喜、生命の歓喜、生きる喜び――を求めるものだと言えるのではないでしょうか?

究極的には、客観的には唯物論が真実なのかもしれませんが、しかし主観的にはこの生命の歓喜への衝動は否定できないものだと思います。

実際に、先進諸国で一定の知性水準にある大部分の人は「死んだら無になるかもね」と薄々考えてはいても、ニヒリズム(消極的ニヒリズム)に陥り絶望して生きる意欲が無くなるということは、ほとんど無いのではないでしょうか?。
大部分の人は哲学的な突き詰めた思考や議論に没頭することなく、それなりに幸せな人生を求めたり、もがいたり、享受したりして暮らしています。


「内なる意識」の信仰はこれに立脚するものとして模索したいです。
生存本能をもつ生物としての人間の幸福、生命の歓喜を求める意欲に沿ったものであり、それに資するものとして考えたいです。

つまり瞑想などによる「内なる意識」の探求・信仰は、人間の喜び、生命の歓喜に関することであるという方向性で模索したいです。

生きようとする意欲に立脚するならば、この「内なる意識」の信仰は生物学的な信仰とも言えるかもしれません。笑

「外なる信仰」から「内なる信仰」へ

特に先進諸国では宗教は瓦解しつつあるようですが(私なりの無記・中道の模索②)、では、この宗教はいったい何から生まれてきたのでしょうか?

参考:Wikipedia「宗教の起源」

宗教の起源については進化生物学や神経学、心理学、、、などで様々に言われています。
極端なものだと「宗教の起源は精神病である」と考える人もいます。

もちろん宗教信者なら神や霊魂などの霊的な存在が起源だと主張するでしょう。


今ここで述べておきたい考えは、宗教というのは結局は人間の脳が生み出したものであり、意識が生み出したものだというものです。

結局は神聖な、偉大な神々であれ、宗教であれ、そういったものは人間の意識の内にあるものの投影なのではないでしょうか?

伝統的宗教であれ新興宗教であれ、今捨てられつつある宗教というのは、その人間の外に投影された「外なる信仰」「外なる霊性」だと言えるでしょう。

そして自らの意識の内を見るというのは、外に投影されたものの源に向くということでり、それはつまり先祖達が抱いていた宗教心、信仰心、霊性というものを完全否定するものではなくて、むしろ、その本源に向き合うということではないでしょうか?
内なる信仰」「内なる霊性」とも言えるでしょう。

宗教と科学は手を取り合うべきなのか?

科学者からというよりも、宗教信者、特に科学の進歩によって自分達の信条・信仰が脅かされていると考える宗教信者から、宗教の重要性を訴えるために引用されることが多いアインシュタインの言葉があります。

宗教無き科学は欠陥であり、科学無き宗教は盲目である Science without religion is lame,religion without science is blind”

有名な言葉です。

虎の威を借る狐のように宗教信者は「天才科学者アインシュタインだって宗教を尊重している!!」とこの言葉を引用して、宗教と科学は「対立するのではなくて、ともに手を取り合い助け合うべきだ」とか「補完し合う関係だ」などと言う人もいます。


しかし実際にはアインシュタインの言う「神、宗教、信仰」というのはユダヤ・キリスト教的な神や信仰のことではないし、汎神論的な信仰でもないし、それらの尊重でもなくて、科学的な態度を基礎とした上で、この世の成り立ちに対する“センス・オブ・ワンダー(畏敬の念)”に近いものだとされています。

実際にアインシュタインは「(ユダヤ・キリスト教の神のような)人格神を信じていない」とはっきりと発言をして、そのせいで「ドイツに帰れ」といったものを含めて、当時のキリスト教徒やユダヤ教徒から非難されています(参考:リチャード・ドーキンス著『神は妄想である―宗教との決別』 垂水 雄二 訳 早川書房  ,  第1章)。


さてアインシュタインのことはこれまでとして、宗教と科学は手を取り合うべきだという主張は正しいのでしょうか?(ここでの宗教には釈迦の説いたダルマは含めないことにします)

単刀直入に言うと私はこの主張は、宗教の保身でしかないくだらないものだと考えています。
そもそも宗教は死につつあるので、わざわざ科学の側から手を取る必要もないとも考えています。


宗教と科学は矛盾対立するものです。
分かりやすい例では「アブラハムの宗教」(Wiki:アブラハムの宗教)です。
正直な知性の持ち主ならば誰もが、この宗教の聖典を読んで「科学と補完しあう関係だ」などとは、決して思わないはずです。

この聖典には科学を助ける上で、他の文献、情報には無い何か特別視すべき価値があるのでしょうか?

極端な例だと、この宗教の信者の中には今でも「地球は平らである。地球は紀元前5000年頃に創造された。恐竜はノアの洪水と人間の狩りで滅びた。だってそう聖書に書いてある!聖書は真理だ!」などと言う人すらいます。

これらの宗教の側からは、権威付けのために科学が必要なのかもしれませんが、科学の側からはこれら宗教は必要ないと思われます。

科学と宗教とは共に手を取り合うような関係では無いです。

では霊性と科学は?

人間の内に「霊性」といったものを認める場合には、その霊性と科学は対立するものなのでしょうか?それとも手を取り合うことができるのでしょうか?

人間の生活、社会、文明ために霊性と科学は手を携えることは可能だと考えられます。


科学というのは人間の主に知性、思考力に関わるものです。

知性も精神性も、そして霊性も人間性を構成するものだと考えられます。
そうであれば十分に知性、そして科学の営みと霊性というのは、精神性がそうであるように人間の個人、社会のために手を携えることは可能であると考えられるでしょう。

対立することがあったとしても、それは「頭では分かっているんだけど、心が追いつかない」といったものに例えられるようなものだと思われます。

決して「紀元前5000年頃に地球は創造された」「地球は平面だ。宇宙は存在しない。土星や木星なども存在しない」「進化は無い」といったような絶望的な対立ではないと思われます。

番外編 戯論:内なる神?一なる神?ワンネス?

とりあえずは今ここでは、霊的な存在への信仰を肯定も否定もしていません。
そういうのは個人の信仰、選択によるものです。


ただ私個人としては「内なる意識」の信仰は、特に欧米キリスト教圏の臨死体験者がその体験によって得た信仰に通じるものがあるかもしれないと感じています。


臨死体験者の中には、その体験中に「意識を持った光の存在」「一なるもの、一なる神」に出会ったと主張する人がいます。

そしてしばしば「神とは一なる存在であり、かつ、愛そのもの、命そのものである。神は私たちの内に存在する(内なる神)」とういったようなことを言う人もいます。

伝統的宗教には愛想を尽かしていた人が、こういった臨死体験を経てその体験内容を基礎にした自分なりの信仰を持つようになる人もいるようです。

さらに臨死体験者の中にはヨガや瞑想など東洋の思想や実践に関心を持つようになったり、「クンダリニー(クンダリーニ)」など生命エネルギーの体験をするようになる人もいるようです。


一なるもの、一なる神があり、人間の意識はその一部であり、またそれは人間の意識の内にあるものである(内なる神)というのは、精神世界、スピ系ではよく見られる思想であって「ワンネス Oneness」などと呼ばれているようです。

ウパニシャッド(ヴェーダーンタ、梵我一如)などインド思想にも連想させるものがあるようだし、キリスト教ニューソートにもあるようです。
ちなみにスピ系の「 引き寄せの法則 」の元ネタはニューソートだとされています。

プロティノスの思想はどうなんだろう?仲間なのかなぁ。


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