チベット仏教への関心 ―― 菩提心・慈悲、顕教・密教、ラムリム
『今になって夢診断。チベット仏教の夢』のつづき
興味あること
今では、この瞑想する人noteでは「霊性の探究」というのを興味あることとしています。一大事としています。瞑想もヨガもそのためだと思っています。
「霊性の探究」といっても、超越的な信仰を根拠にするのではなくて、できれば神経科学、人体の神経生理システム、生物学的基盤、人間の意識ー神経生理というのを根拠にしたいと考えています。
神経科学、神経生理システム、、、云々といっても実際は難しいことなので、できるだけ逸脱しないように意識しますよという程度のことです。
トンデモな考えかもしれませんが、霊性(智慧・慈悲)というのは、生物学的にも人間性に根ざすものかもしれないと私は感じています。
関連note:【大光明マンダラ】内なる意識・霊性(スピリチュアリティ)の探究の方向性
そして今関心が強まっているのはチベット仏教です。
チベット仏教への関心
正統に仏教、チベット仏教を学ぼうとまでは思ってません。
「唯識三年、倶舎八年」とか私には無理です。
以前に「中観」「中観帰謬論証派(プラーサンギカ)」に関する初心者向けの本を少し読んだことがあるのですが、
これは宗教なのか、思想なのか、哲学、認識学、論理学、言語学、修辞学、意味論、弁論術なのか、それとも屁理屈の類いなのか、はたまた「ソーカル事件」みたいなものなのか、凡俗の私には分かりませんでした、、、
「結局何が言いたいの?」と髪の毛をかきむしりたくなるほどイラついて途中で諦めましたが、世の中の見方が変化するような感覚もあって、面白いなとは思いました。
残念ながら私には、こういった難解な仏教教学を理解する脳ミソ、ハート、根気には恵まれていません。
それでも仏教の空性、縁起については、基礎的なものくらいは学んでみたいと思っています。
さて今の時点でチベット仏教への関心としているのは、主に以下のものです。
なぜ関心?
「霊性の探究」に興味があるといっても、超越的な信仰を探究しようとしているわけではありません(この瞑想する人noteでは超越的なものを否定したいわけでもない)。
彼岸(超越的なもの)ではなくて、此岸について関心があります。
霊性というのは、この此岸の世界において適応されるべきだと考えています。
チベット仏教、特に「菩提心、慈悲」「顕密統合」「ラムリム」についてもっと知ることが、こういった方向性で思索するのに役立つのではないかと考えています。
・菩提心、慈悲の称揚について
もちろん初期仏教においても慈悲の思想はあります。
『スッタニパータ』の中にもあります。
大乗仏教、特にチベット仏教においては、シャーンティデーヴァの『入菩薩行論』や、ランリタンパやチェカワによるものが有名な「心の訓練(ロジョン)」の伝統などにみられるように、菩提心や慈悲は、実に称揚されるようになったと感じられます。
どういった経緯でこうなったのでしょうか?
仏教は初期は主に出家者集団によって修行され、どちらかというと世俗・社会性否定、瞑想中心的な雰囲気の中にありました。
自己の悟り、阿羅漢を目指すものでした。
大乗の菩提心や慈悲というのはどのように育まれてきたのでしょうか?
また慈悲と「縁起、空性の把握、智慧」にはどのような関係性があるのでしょうか?
チベット仏教における菩提心や慈悲の称揚というのは、論理的な思考や仏教をとりまく状況の変化だけではなくて、瞑想体験によっても育まれてきたのではないかと、今の時点では私は直感的に思うところです。
瞑想体験と慈悲について関連すると思われますが、ニンマ派のゾクチェンについて読んだものに、「あるがままの心の本性から慈悲や歓喜は自然に湧いてくる」というような内容の記述があったように記憶しています。
仏教の良いなぁと思うところは、観察、分析、論理的思考が重視されているところです。
だから「智慧の宗教」と呼ばれているのでしょう。
いちいち理屈っぽいところが良いなぁ、と私は思います。
しかし仏教は西洋哲学・論理学とは違う特徴があると思われます。
それは瞑想が重視される伝統です。
瞑想が重視される伝統でなければ、「性的ヨーガ」の問題をはらみながらも、特殊なヨガの技法、生命エネルギーの実践(無上ヨーガタントラ、究竟次第)がチベット仏教に受け入れられることはなかったと思われます。
生命エネルギーの実践というのは、瞑想のために、瞑想の意識体験のためになされるものだからです。
仏教の「智慧」とは論理的・分析的な思考だけではなくて、「意識による理解・気づき」といったものを含むものだと思われます。
関連note:密教(タントラ)の目的。瞑想、ヨガ、クンダリーニ、神秘体験、超人思想、、、?
論理的・分析的な思考の積み重ねだけでは、菩提心や慈悲が称揚されるようになるには不十分なのではないか、瞑想による意識体験も関係しているのではないかと私は直感しています。
瞑想体験と慈悲というのが関係するのなら、神経生理の基盤においても慈悲というのは人間の性質に根ざすものだと示唆することができるかもしれません。
霊性というのが、実に生物学的にも人間に根ざすものだと示唆することができるかもしれません。
他に面白いものとしては、宗教学の学術的研究では、大乗仏教の展開の過程にキリスト教の影響があった可能性が指摘されてもいます。
この説は正統な評価を受けているのかどうかは、私は知りません。
仏教とキリスト教の伝搬地域を見ると、思想的な交流もあったのかもしれません。
チベット仏教中興の祖とされるアティーシャ(982-1054)が活躍する300年も前の、中国・唐の2代皇帝太宗(李世民)の時代にはその都、長安にもキリスト教(いわゆるネストリウス派・景教)の教会が存在したとされます。
・顕密統合について
チベット仏教ゲルク派の説明では、顕教と密教は最終的にはゲルク派開祖ツォンカパによって統合されたとされています。
この顕密統合について、
その必要性はどのようなものだったのでしょうか?
どのような問題があったのでしょうか?
どのように問題を解決したのでしょうか?
チベット仏教には顕教と密教(無上ヨーガタントラ)があります。
チベット仏教の主な宗派として、ニンマ、カギュー、サキャ、ゲルクがあります。
この内で、ニンマやカギューは密教、瞑想重視でゲルクは顕教重視だという評判があります。
チベットでは、歴史的に顕教よりも密教が人気があり、とくに「ツァ(脈管)、ルン(風)、ティクレ(心滴)」(生命エネルギー)を駆使する「究竟次第(ゾクリム)」の実践に注目が偏っていた時期もあるようです。
また顕教と密教、さらに密教の体系でも「生起次第」と「究竟次第」の実践において雑多でまとまりがなかった時期があるとされます。
ゲルク派では、チベット仏教中興の祖とされるアティーシャが道筋を築き、ゲルク派開祖のツォンカパが、最終的には顕教と密教を上手く整理して統合したと説明されます。
・ラムリムについて
チベット仏教は総合的な仏教であるとされます。
チベット仏教においては、初期仏教、大乗、密教を統合し、一つの体系「ラムリム(修行道次第、修行のプロセス)」とする方向性を示したのが、アティーシャとされます(『菩提道灯論』)。
ゲルク派開祖のツォンカパはさらにこれを発展させたとされます(『菩提道次第広論 ラムリムチェンモ』)。
このラムリムについて、
初期仏教、大乗、密教(とくに無上ヨーガタントラ)の統合において、
その必要性はどのようなものだったのでしょうか?
どのような困難があったのでしょうか?
どのように困難を解決したのでしょうか?
仏教の展開というのは大雑把には、、、
釈迦、初期仏教 → 大乗(マハーヤーナ) → 大乗における金剛乗(ヴァジュラヤーナ、密教)
、、、です。
大乗仏教思想の2大潮流は「中観」と「唯識」だとされます。
この2つの派は「自性」「実体」などについて批判しあったようなのですが、中観優位で上手いこと統合したとされるのは、シャーンタラクシタ(?-787頃)とされます(中観荘厳論)。
このシャーンタラクシタは、パドマサンバヴァとともにチベット仏教の祖とされます。
ゲルク派ではこの2つは、中観(帰謬論証派)がかなり優位なものとして取り入れられているようです。
金剛乗について大雑把には、、、
まじないみたいな密教(前期密教、雑密)→ 中期密教(日本仏教の密教がこれ)→ 無上ヨーガタントラ(アヌッタラヨーガタントラ、後期密教、チベット密教)
、、、です。
ラムリムにおいては、初期仏教、大乗、無上ヨーガタントラが統合されているとされます。
この統合の経緯についてよく知りたいと思っています。
以上、チベット仏教についてもっとよく知ることは、この瞑想する人noteでの霊性の道 ―― ラムリム ―― の思索に役立つかもしれません。
関連note:【ラムリムにおける統合!?】キリストの道、菩薩の道、バクティ・ヨガ、密教、瞑想 / もし神が存在するのなら、どこに?