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アサガオのたね、スイカのたね

 アサガオのたねを採るのが好きだった。アサガオの実はカラカラに乾いていて、つぶすとポロポロと、目にも入らず、間違って鼻に吸い込むこともないちょうどよい大きさのたねが採れる。それに少しも手が汚れないのがいい。簡単につぶれず、蟻やダンゴムシのように死なないのもいい。

 手のひらに載せ、ふっ、とたねを包んでいた皮を吹き飛ばす。一度も砂に触れたことのない美しい小石のようなたねが手のひらに残る。清潔な感じがする。ぱんぱんに張ったお腹のような実を指の腹でつぶして、そこからたねを取り出すのに、植物らしい液体の一滴もしたたらなせない。

 アサガオは簡単に芽を出すし、双葉から本葉へ、そして蔓をのばして上へ上へ、目立ってわかりやすいドリルのような蕾をつけ、ちゃんと朝に開花して登校前に花を見ることができる。学校から帰るとしぼんでいるが、また別の花のつぼみが育っているのをすぐに見つけられる。すべてが終わればあとは枯れて収穫だ。

 スイカが嬉しかったことがない。周りが嬉しがるし、大人数に振る舞われたときに食卓の彩りがきれいだもいうこともわかるし、なんとなく夏らしいことだ、とも納得してはいた。でも濡れているから本当は触りたくなかった。

 注意深く、厚い皮のなるべく濡れていないところを持つが、皿がすでにスイカの汁で濡れていることもあって、それが汚く思われて苦手だった。トマトのように、口に入れると吐きそうになってしまうほど苦手な食べ物なら、スイカも食べなかったかもしれないが、そうではなかったから、「食べないの? なんで? 甘くておいしいのに」と言われるのも面倒で、周りに流されるままに食べた。

 スイカのたねが特にきらいだった。口からわざわざ吐き出さないといけないのが億劫だった。食べているのか吐き出しているのか、自分がどちらをしているのかをはっきりさせて食事したかった。自分の口から出た汁に、スイカのたねが落ちて浸かるのを見るのに嫌な気分がした。スイカのたねは小さな水生昆虫のように見えた。メロンのたねはもっと貧弱な虫の死骸のようで厄介に感じていたけれど、メロンはまだスプーンが出されてそれで食べることができたからよかった。道具を使って手を汚さずに済ませられるのは助かる。なぜスイカは手で持ってかぶりつかせようとするのだろうと思った。しかもスイカ割りなどと野蛮なことをする。割って壊すだけなら構わないが、無様に割れたスイカを食べなければいけないのが理解できなかった。包丁できれいに切る方がいいに決まっている。

 スイカもメロンも下の方はずいぶん残した。虫の食べるもののような味がするからだ。そしてもったいない、贅沢だと非難めいたことを言われるのだった。

 スイカのたねを飲み込むと、お腹から来年スイカが生えると言われた。そんなことは信じてはいなかったが、スイカのたねはそれなりの腹痛を起こさせそうだと思っていた。

 いまだに自分でスイカを買ったことがない。メロンも買わない。高級品と言われてもありがたみがわからない。どうしてああいったびちゃびちゃのものが尊ばれるのかわからない。

 一玉いくらくらいが安いのか、高いのか、それももちろんわからない。

 ぼくの娘は、ぼくの遺伝子を持っている。

 だが、スイカは大好きらしい。保育園最後の年は、七夕の短冊に「スイカがたくさんたべられますように」と書いた。

 けれど、食べ方はぼくと同じで、やはり最後まで(どこがスイカの食べられる部分の最後なのかはわからないけれど)食べずに残す。

 娘はふどうを、ぶどうの身を房から手を汚しながら取って食べる。ぼくはぶどうもあまり好んで食べない。手がびちゃびちゃになるからだ。

 ぶどうを食べられる娘を、ぼくは少し嫉妬している。ぼくよりも手を汚せる娘が、あちら側の人間に思えて、 少し寂しい気もする。 

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