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『Coda あいのうた』に耳を傾けて
「手話」もリアルタイムの感情を表現することが出来る。
2021年夏、日本中が熱狂した東京五輪。
『多様性と調和』を理念に掲げる中、テレビで流れる開会式の映像で「ある配慮」が欠けていると話題になった。それは、ろう者への配慮だ。
私は外国の映画を見る時、キャストが演じている生の声を聞きたくて、少し背伸びをして吹き替え版ではなく「字幕」の映画を見る。もちろん内容はどちらも同じ。にも関わらず、不思議なことに見ている人によって笑うタイミングが違う。
ある人は映像とキャストの言葉を聞いて。
ある人は字幕で現れた言葉を見て。
感動は一瞬に訪れる。偶然なのか必然なのか定かではない奇跡のような組み合わせに人は感動するのだ。そこに一寸の狂いもあってはならない。
東京五輪の開会式の中継では、その感動にズレを生じさせてしまっていた。
「字幕であれば手話通訳がなくても問題ない」という思い込みの下に。
ろう者にとって手話は命を守る手段である。手話は言葉そのものを直訳する訳ではないため、聴覚障害者の中には字幕を理解するのを難しく感じる人もいる。また生放送の字幕は、リアルタイムの発言者の言葉を忠実に再現している。そのため映画の字幕とは違い、話す内容を先読みすることはできない。
「話している人の様子を見て、字幕を読んで理解し、開会式の映像を見る」
この一連の動作によって生じるタイムラグは一瞬の感動体験をも奪ってしまう。
しかし、私たちが生きる日常は、そんな映像よりも複雑だ。
なんせ会話中に「字幕」は存在しない。
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主人公のルビーは家業の漁業を手伝う高校生。
そして「家族で唯一の健聴者」。
物心ついた時から家族の「伝達係」。声でも言葉でもなく手話で。
ここに登場するルビーは決して悲劇のヒロインではないと思う。
音楽に対する熱い情熱と、小さい頃から大人の会話に混じったことで大人の事情を知り過ぎたが故の冷静さがぶつかり、もがき苦しんでいる。
心の声を家族に打ち明けたい。大声で叫んですっきりしたい。
しかし、その「声」は決して家族に届くことがない。
彼女の生活に唯一色を付けてくれたのは間違いなく音楽だ。内に秘めた思いを、音に乗せて、声に乗せて訴える。「これが私だ」と主張できるのはいつも歌っている時。だからこそ彼女の歌声は「聴く」人の心を動かす。
そして「聞こえない」人の心をも動かしたのだ。
映画の感想を書き出すと止まらないが、ぜひとも映画を観て欲しいので、映画の内容に関してはこの辺で。。。
この映画を観る前まで手話は「手の言葉」だと思っていた。
「開会式の中継映像には手話がなかったので、字幕を付けて観ていたが、字幕と映像とのタイムラグがあり面白さが半減した」という、ろう者の思いを綴った記事は、伝えたい事は分かるため納得こそしたものの、それでも言語ツールの1つとして便利なものであるという認識でしかなかった。
しかし全くの思い込み、いや全くの無知だった。
この映画を観終わって、手話は「全身の言葉」だと感じた。
胸に秘めた思いの一つ一つが指先へと宿り、「伝われ。伝われ。」という情熱が表情からにじみ出る。手の動きの速さは鼓動の速さに比例し、身振りの大きさはその思いの大きさを象徴している。
間違いない。ろう者たちは命を懸けて手話をしているのだ。
そして敢えてもう一度言おう。
ルビーは決して悲劇のヒロインではない。
確かに彼女は生まれてすぐに「伝達係」という重い十字架を背負ってしまったのかもしれない。生活の自由が制限されていったことで、その不自由さに憤りを感じているかもしれない。
しかし彼女もまた、唯一の健聴者として家族の生活を守るために命を懸けて手話をしているのだ。彼女は間違いなく家族のヒーローである。
私たちが知らないだけ見ていないだけで、様々な障害、障壁にもがき葛藤している人は沢山いる。
「聞いたことがないから知らなかった」では済ますことができない『声にならない叫び』が沢山ある。
その現状、そしてその叫びに、目と耳と心を傾けて「聴く」ことが出来るのは健聴者の私たちであり、私たちが背負った役目なのだ。
最後に、ルビーの母ジャッキーの言葉を。
産まれたあなたが「聞こえる」と知って悲しかったわ。
分かりあえないと思ったから。
確かに健聴者とろう者が分かりあうのは難しいかもしれない。
何しろ「Children of Deaf Adults (CODA):聴こえない親のいる、聴こえる子ども」という言葉があるくらいだ。例え血は繋がってても、心と心を繋げるには両者の溝を埋める必要がある。
それでも私はこの映画に出会えたからこそ、健聴者代表者として、良き「傾聴者」になりたいと思う。
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