ナーガールジュナ:勉強会のアプローチ
基本参考書
古代インドの高僧ナーガールジュナ(龍樹)とその教えを学ぶための基本書としてまず挙げるべきは、中村元『人類の知的遺産13 ナーガールジュナ』講談社(初版1980年)だと思います。
ナーガールジュナの伝記の翻訳、『中論』を中心としたナーガールジュナの思想についての概説、中国やチベットにナーガールジュナの作とされる数多くの文献のうち「検討にあたいする」16書(と、作者に疑義があるもの5書)とその主なものの内容紹介、『中論』のサンスクリットからの全訳などが収録されています。
現在は『龍樹』と改題されて、講談社学術文庫の一冊となっています(2002年)。
その内容を補うものとして、瓜生津隆真『龍樹 空の論理と菩薩の道』大法輪閣(2004年)があります。
『中論』以外のサンスクリットやチベット語で伝わっている主な(伝)ナーガールジュナの著作を収録した『龍樹論集』中公文庫の共訳者によるもので、『中論』では主題的に説かれていない菩薩の実践についても、『十住毘婆沙論』『菩提資糧論』『宝行王正論』『勧誡王頌』に基づいて紹介しています。
その後、従来の理解とは大きく異なる新しい研究も次々に生まれていますが、それが完全に定説となった訳でもないので、オーソドックスな紹介として、まずはこの2冊を読むのがよいと思います。
ナーガールジュナの伝記
前掲の中村元『ナーガールジュナ』に、中国に伝わるものとして(漢訳『中論』の訳者である)鳩摩羅什(クマラジーヴァ。344-413(異説あり))の訳とされる『龍樹菩薩伝』、チベットで書かれたインド仏教史のナーガールジュナについての記述として、プトン(1290-1364)とターラナータ(1575-1634)の仏教史のナーガールジュナ伝が紹介されています。
中国とチベットに伝わるナーガールジュナ伝の大きな相違として、前者では仏門に入る前の若き日のナーガールジュナについて、聡明で、その才能を欲望を満たすために使おうと、隠身の術を習得して、悪友三人と王の後宮に忍び込み、女官たちを犯して回り、ナーガールジュナ以外の三人は殺されてしまい、命拾いしたナーガールジュナは欲望が身を亡ぼすものであることをさとって、修行の道を志したことが語られています。
共通する内容としては、龍宮(チベットではナーガ(蛇神)の世界)に伝わる大乗経典を取得したこと、南インドの王と親交を結んだこと、死を望む者の願いを受け入れて死に至ったことが説かれています。
『龍樹菩薩伝』は、終わりに「ナーガールジュナがこの世を去ってから今に至るまで百年を経ている」とあり、もしこれが本当にインドで記述されて『中論』の訳者によって翻訳されたものであるならば、ナーガールジュナの伝記資料としてもっとも信頼できるものとなるはずですが、実際には鳩摩羅什によって創作されたものではないか、近年は、ほぼ同内容をしるした『付法蔵因縁伝』(その性格と成立については野村曜昌・大川富士夫「付法蔵因縁伝解題」『国訳一切経 史伝部16下』大東出版社、所収を参照)の記述をもとに『龍樹菩薩伝』が創作されたのではなど、さまざまな説が出されています。
南インドの王との親交については、他の資料ではより詳しく展開されていて、ナーガールジュナ伝の展開という観点から興味深いです。
チベットに伝わる伝記の特徴としては、600年生きたとされていることで、これについて後期密教の同名の行者と混同された、という説明を見ることがありますが、サンスクリットの文献でも説かれていて(松長有慶師の指摘。『密教-インドから日本への伝承』 中公文庫 (1989。『密教の相承者 その行動と思想』評論社、1973の文庫化)を参照)、インドで成立した説です。時代的に両者の中間に位置する、インドを訪れた玄奘(602-664)の『大唐西域記』に、ナーガールジュナと南インドの王の寿命は等しく、ナーガールジュナが死なない限り王となることはできないと、王子が母の妃からそそのかされ、ナーガールジュナに死を願ったという、密教行者のナーガールジュナの死として語られる話が収録されていて、同名の別人の混同ではなく、時代が下るとともにナーガールジュナの寿命も延び、伝記も展開していった、と考えなければなりません。
その背景としては、空を実際に体験すると、不死に近い状態となるという考えがあり、弘法大師空海も、自分の師の師が教えを受けた龍智(ナーガボーディ。ナーガールジュナの密教の弟子)が今も生き続けていることをしるしており、玄奘がインドでアールヤデーヴァ(ナーガールジュナの弟子)の『広百論』の註釈書の伝授を受けた百歳を超える老僧が、アールヤデーヴァ自身だったとも語られています。
ナーガールジュナの著作
中村元『ナーガールジュナ』には、検討にあたいするものとして、下記の著作が挙げられています。
『中論頌』のほか、『十二門論』(漢訳のみ)、『空七十論』(チベット訳のみ)、『廻諍論』(サンスクリット、チベット訳、漢訳)、『六十頌如理論』(チベット訳、漢訳)、『ヴァイダリヤ・スートラ』(摧破のスートラ)とその自註『ヴァイダリヤ・プラカラナ』(広砕論)(チベット訳)、『大智度論』(漢訳)、『十住毘婆沙論』(漢訳)、『大乗二十頌論』(サンスクリット・チベット訳・漢訳)、『菩提資糧論』(漢訳)、『因縁心論』(サンスクリット・チベット訳・漢訳)、『親友への手紙(勧誡王頌)』(チベット語、漢訳3種)、『ラトナーヴァリー(宝行王正論)』(サンスクリット、チベット訳、漢訳)、『チャトゥフ・スタヴァ(讃頌四篇)』(サンスクリット、チベット訳)、『讃法界頌』(チベット訳、漢訳)、『広発願頌』(漢訳のみ)
その選択基準については語られていませんが、『中論』の偈頌の部分のほか、中国や日本の伝統で重視された教え、サンスクリットテキストが残っていたり、インドに仏教が存在した時代の他の論書でナーガールジュナの著作として言及されているものが選ばれていると思います。
ナーガールジュナの著作についての記述としては、『龍樹菩薩伝』に、『優波提舎』十有万偈、『荘厳仏道』『大慈方便』各五千偈、十万偈からなる『無畏論』があり、『中論』約五百偈は『無畏論』の中に含まれていることがしるされています。『中論』以外の書物の存在は、この伝記以外には登場せず(チベットにナーガールジュナの自註として同名の『無畏論』が伝わるが、長さが異なる)、『龍樹菩薩伝』が鳩摩羅什の翻訳あるいは創作の場合、なぜ鳩摩羅什の訳した『中論』以外の『大智度論』『十二門論』への言及がないのかという疑問があります(『大智度論』はナーガールジュナの『大般若経』についての註釈の一部を訳したとされるもので、『優波提舎』がそれなのかもしれません)。
『中論』の詳細な註釈書『プラサンナパダー(明句論)』の著者で、その『入中論(中観論への入門)』が現在もチベットの僧院教育で、ナーガールジュナの仏教理解を伝える中観学の教科書として用いられているチャンドラキールティ(7世紀)は、『明句論』の奥書で、先行するブッダパーリタ(仏護)とバーヴァヴィヴェーカ(清弁)による註釈書、般若経や当時のインドでナーガールジュナの論書として伝えられていた他の著作(『経集』『宝行王正論』『讃頌』『六十頌如理論』『広破論』『空七十論』『廻諍論』)、ナーガールジュナから教えを受けたアールヤデーヴァの『百論』を手がかりに、苦労して註釈をおこなったことをしるしています。
プトンの仏教史には、顕教・密教に関する多数の著作のほか、医学や錬金術などに関する著作があることが語られています(中村元『ナーガールジュナ』を参照)。
注目されるのは、『菩提資糧論』(『さとりの群れ』と訳されているが、これはオーヴァ―ミラーの還梵の誤りによる。瓜生津隆真『龍樹 空の論理と菩薩の道』を参照)の名前が挙げられていることで、現在のチベットには伝わっていませんが、チャンドラキールィの『四百論』註に引用されているほか、鳩摩羅什の訳した『十住毘婆沙論』でも「助菩提」「助道経」「助道法」「助道」の名で引用されていて、ナーガールジュナの真作の可能性の高いものです。内容的に『宝行王正論』のなかの大乗仏説論と関連があります。
最近の研究の方向性とこの勉強会のアプローチ
最近の研究では、厳密に『中論』(正確には『中論』の偈頌の部分)のみをナーガールジュナの著作として取り扱う傾向があります。
そのことによって『中論』をより精密に読解することが可能になったり、歴史的人物としてのナーガールジュナについて明らかになるのであば、もちろんそれはすばらしいことですが、この勉強会で目指すものは、それとは方向性が異なるとも考えています。
そもそも、インドに仏教がまだ存在していた時代のチャンドラキールティすら、『中論』の読解に、他のナーガールジュナの著作とされるものを手がかりとする必要があり、それは仏教の性質や、『中論』の執筆目的とも関連しています。
仏教の全体像を理解することは容易ではなく、『中論』でナーガールジュナの仏教理解の全体像が説かれているわけではありません。『中論』は、仏教の極めて限られた部分のみに特化した教えで、そこには巧みな策略が張り巡らされています。その策略があまりにも巧みなため、ナーガールジュナの意図を理解しようとしても、その意図が理解できずに、迷路のなかをさまよってしまうむつかしさがあります。
チャンドラキールティの註釈を読むと、チャンドラキールティは『宝行王正論』で説かれている仏教の全体像のなかに『中論』の言葉を位置づけることで、それを読み解いていることがわかります。
ナーガールジュナは『中論』で、自分の仏教理解や独自の思想を説こうとしたのではありません。その逆で、そもそも仏教というのはそういう教えではないこと、釈尊は何か思想や教義を伝えようとして教えを説いたのではなく、そのこと(伝えようとした何かがあるわけではないこと)を理解することが、釈尊の言葉を真に理解することだ、というのがナーガールジュナが『中論』で伝えようとしたことです。
内容的にひとつの締めくくりとなる第二十五章の最後の偈は「仏陀によって、どのような法も、どのような処でも、誰に対しても、説かれたことはない」という言葉で締めくくられています。
教義に従う、というのは、西洋の一神教をモデルにしたと宗教のあり方で、明治以前の伝統的な仏教の捉え方とは異なります。
神が世界をお創りになった、その神が(たとえば)「汝、殺すなかれ」と説いているので、神によって創られた私たちは、誰もが常に例外なく、その言葉に従う必要がある、というのが、一神教の考えです。
それに対し、仏典の言葉は、その多くが「如是我聞(私はこのように聞きました)」から始まることが示すように、その人がその時にそう聞いたということで、別の人は別のことを聞くだろうし、その人も別の機会にはまた別のことを聞くかもしれず、誰もが常に例外なく従うべき教義ではありません。
仏教はさまざまなインドの宗教のなかで、医学的発想の教えとされていました。患者の病気を治すという目的は同じですが、医師は患者を診て、その人の症状に合わせて薬を処方するように、釈尊はその人その人に合わせて異なる教えを説いた(対機(たいき)説法)、というのが伝統的な説明です。
日本仏教の諸宗派は、実践法も、本尊としている仏も異なり、名前は仏教であっても、実際は異なる別々の教えのように映ることもあります。
日本仏教の伝統では、ナーガールジュナ(龍樹)を「八宗の祖」として尊んでいました。それは日本仏教の諸宗派の実践は、同じナーガールジュナの仏教理解に従う実践、同じ山の頂上を目指す異なる登山道のようなものだ、ということです。
実際、体系的に密教の教を伝えた弘法大師、中国に渡って禅の師の指導のもとで「身心脱落」を体験した道元禅師、他力念仏を説いた親鸞聖人は、自分の説く実践をナーガールジュナの仏教理解に基づくものとして紹介しています。
彼らの理解したナーガールジュナは、伝統的な理解に基づくもので、現代の研究者が明かにしようとしているものとは違うかもしれません。
しかし、それは単に伝統というだけで意味もわからずありがたがられたり、単なる権威づけとして用いられたわけではありません。
ナーガールジュナが釈尊の教えのどこに心髄を見て、それを理解したうえで、日本仏教の諸師がそれぞれの実践をナーガールジュナに由来するものとして説いたことを明らかにする。
それによって、現在日本に伝わっている実践法が、釈尊のさとりをどう受け継ぎ、どう目指すものかを明かにする。それが今回の勉強会で目指すことです。(つづく)
(現在、Zoomを使っておこなっているオンライン勉強会「ナーガールジュナ(龍樹)と日本の高僧たち」のために書きました)
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