クレオメ

医師をしています。 職業柄、別れに考えを巡らせることが多く、思いを綴るための小説のような何かを書きたいと思い立って始めました。 【短編小説】佳話でありますように 【エッセイ】人生の最期にかける言葉・かけられる言葉

クレオメ

医師をしています。 職業柄、別れに考えを巡らせることが多く、思いを綴るための小説のような何かを書きたいと思い立って始めました。 【短編小説】佳話でありますように 【エッセイ】人生の最期にかける言葉・かけられる言葉

最近の記事

    • そのとき僕は強く拳を握った 第二話  「ランナーズハイ」

      六年生が走る距離は二キロ。校庭をぐるっと回ったら正門から車道に出て、また戻ってくる。おばあちゃんはその正門で見守っていてくれた。 「あきくーんっ!がんばって!」 その言葉を背中に受けて、霜で真っ白に染まった田んぼ道に飛び出した。  気づいたらすぐにいつもこの三人だ。たにっちは一際長い脚を生かして我先に風を切り開いていく。ちひろくんはもっと戦略的で、たにっちを風避けにして後半に向けて体力を温存している。この二人に勝つためにはいつ勝負に出たらいいのか、必死に頭を巡らせていた

      • そのとき僕は強く拳を握った 第一話     「ふたきれのトンカツ」

        たにっちとちひろくん。 この2人には練習で1回も勝てなかった。勝てたら嬉しいな、とは思っていたけれど、たにっちは僕たちよりもずっとはやくに身長が伸びていて体力もついていたし、ちひろくんはその校区では有名な足の速い3兄弟で小学1年生の時から1番か2番だった。いつも負けても少し悔しいくらいでしょうがないと思っていた。 そんなこんなで持久走大会の2週間くらい前におばあちゃんが入院した。乳がんの再発だった。よく分からないなりに悲しかったことを覚えている。そして悲しいなりに頑張って走

        • 炎心(後編)

          その様子を伺っていた部屋担当の看護師が 「今朝方、緩和病棟に移られましたよ」 そう教えてくれた。なんとなくその意味は理解できた。 「ご家族の方は来られそうですか」 「ご主人が到着されて付き添われてるみたいです」 少しだけホッとしてわたしは別棟の彼女のもとに足早に向かった。  病院の緩和病棟に足を踏み入れるのは初めてだった。そこには独特の空気が漂っていて、自分の心臓がぬるま湯にプカプカと浮かべられているような、心地良くも少し息が詰まるようにも感じられる不思議な雰囲気

          炎心(前編)

           当時研修医だったわたしと、その人生に幕を下ろそうとしている患者。ふたりの短い話。  わたしが研修医でいろいろな科をローテーションする中で、消化器内科をまわっている月だった。指導医がずっと外来で診ているという、ひとりの女性が入院してきた。 「ごはんが食べられなくなってて、息も苦しいらしい。また胸水が溜まっているかも。これまでのカルテを見といてね。」  指導医に言われるままわたしはすぐに彼女のカルテをさかのぼった。50代のまだ若い女性。消化器系の癌と診断されていること。そ

          炎心(前編)

          【短編小説】佳話でありますように 七話

           明くる朝、ぼくは徹夜したことによっていわゆるハイになっていただろうし、これまでの人生で手紙を書こうと思い立ったことはあっても書き終えた試しはなく、なんだかよくわからない達成感もあってか全く眠くなかった。依然日が昇ってからはうだるような暑い日々が続いており、その朝も蝉の声が街中の目覚まし時計として高らかに響いてはいたが、ぼくのうじうじした思いが満ち満ちている部屋に吹き込んだ風はどこか夏の終りを教えてくれるかのように心地よく感じられた。  ぼくの書いた手紙は終ぞ便箋6枚分にな

          【短編小説】佳話でありますように 七話

          【短編小説】佳話でありますように 六話

           隣に彼女がいないことを感じながらどうにかぼくは家にたどり着いた。その思いは家に近づくにつれて強く、大きくなるばかりだった。玄関の扉を開ける。靴を脱ぐ。かばんを置く。手を洗う。部屋着に着替える。歯を磨く。いつもと変わらない帰宅後のルーティンを淡々とこなしたその夜には、あとひとつ自分なりのけじめとしてしなければならないことがあった。  彼女は今月で今の職場を辞めると言っていた。そうなると正真正銘、ぼくと彼女をつなぎとめる手段はこの連絡先だけだった。ベッドに腰を下ろし、左手でス

          【短編小説】佳話でありますように 六話

          【短編小説】佳話でありますように 五話

           それからの会話の内容はあまり覚えていない。これまでの人生ではじめてとか、これから先ずっとといった根拠の乏しい大げさな表現はどこか陳腐に聞こえることが多いけど、少なくともそのときのぼくの頭と心の中は今までにないほどぐちゃぐちゃだったといえる。そんな混沌の中にあってぼくは、果たしてなにかが始まっていたのかも分からないこの関係を終わりにしようという決心だけで、その間の言葉を紡いでいた。彼女は決してぼくに何かを求めていたわけでもなく、きっとひとりの友人としてでも、そういった友人同士

          【短編小説】佳話でありますように 五話

          【短編小説】佳話でありますように 四話

          「わたしもあなたのことが心から好きなんだと思います。」 人の声は空気を振動させてそれが人の耳に到達してはじめて伝わるはずなのに、なぜか彼女の言葉はその空気を少しも揺らすことなくまっすぐにぼくの胸に届けられた、そんな気がした。彼女の言葉を、彼女の口もとから発せられたままの響きとしてぼくは感じたかった。 「なんとなく分かっていました。だってあなたのような人にお相手の女性がいないわけがないですもの。お子さんはいらっしゃるの…そうですか。きっとかわいくて仕方がないんでしょうね。」

          【短編小説】佳話でありますように 四話

          【短編小説】佳話でありますように 三話

           これだから涙もろい人間は嫌いだ。おそらくおよそ十年という歳月を経てもなお、自分がなにひとつとして変わっていないことに呆れながら星空と言っていいのかも分からない、そぞろに光る霞んだ夜空を見上げた。  その日もまたいつもの駐車場に車を停めていた。四台分しかないそこの駐車場はいつも争奪戦が繰り広げられ、満車のこともしばしばあった。だから空いている時は「ついている」日のはずで、実際に「今日はついていますね」と言いながらエンジンを切った。それからその日の車内で過ごした数時間を振り返

          【短編小説】佳話でありますように 三話

          【短編小説】佳話でありますように 二話

           ぼくは彼女にどうしようもなく惹かれていた。しかしどうしようもない思いだった。文字通り、どうしようもないはずの思いだった。ぼくには大勢の前で一生添い遂げることを誓った伴侶がいて、その間には他の何事にも代えられないまだ幼い娘がいた。どこかで彼女に対する思いを断ち切らねば、ぼくたちがもう抜け出せないほど深く深く沈んでいくことは想像に難くなかった。そして決断をするべき時が決してそう遠くないところまで近づいていることを言葉に出さずともぼくたちは感じていた。  その日も人目を気にしな

          【短編小説】佳話でありますように 二話

          【短編小説】佳話でありますように 一話

           出会うべき人に出会えるように神様はこの世界を創ってくれている。出会うべき時に出会えるかはその人の運次第で、そうして巡り会えた時に人はそれを運命と呼びたくなるのだろう。そんなことを考える、ひと夏の出会いについて記しておきたい。いつか佳話として読み返す日が訪れることを期待して。  ぼくの目がはじめて彼女の姿を捉えたとき、病院で胸にはりつけて心臓の鼓動を感知する機械や、指先につけて血中の酸素濃度を計測するようなそういった類いのものがついていなくてよかったと思う。きっとアラートが

          【短編小説】佳話でありますように 一話