【短編小説】佳話でありますように 四話
「わたしもあなたのことが心から好きなんだと思います。」
人の声は空気を振動させてそれが人の耳に到達してはじめて伝わるはずなのに、なぜか彼女の言葉はその空気を少しも揺らすことなくまっすぐにぼくの胸に届けられた、そんな気がした。彼女の言葉を、彼女の口もとから発せられたままの響きとしてぼくは感じたかった。
「なんとなく分かっていました。だってあなたのような人にお相手の女性がいないわけがないですもの。お子さんはいらっしゃるの…そうですか。きっとかわいくて仕方がないんでしょうね。」
彼女はぼくが隠していたことを責めるでもなく、悲嘆に暮れるわけでもなく、ただその事実を事実として受け止めていた。彼女はやはり気付いていてそれをぼくの口から伝えられるときを待っていたのかもしれない。もしかするとすべてを知らないことに美学を持っていたのかもしれない。いずれにせよ知ってもなお、ぼくとはちがって落ち着きを保ち続けていて穏やかな表情を崩さない彼女は美しかった。そしてその美しい佇まいからは彼女がすでにこの先の答えを準備していることが何処となくわかった。暗闇のなかからライトをつけ忘れている一台の車が近づき、走り去っていく。そのエンジン音がゆっくりと小さくなって聞こえなくなり再び静寂が訪れた瞬間、彼女がつぶやいた。その言葉は今度は水面の波紋のようにふわっと彼女のまわりの空間に広がっていき、ぼくの耳に届いたときにはこれまでの彼女の声とは違って少し震えていた。
「…いやです。」
そのときにぼくの心にわきあがってきた感情の正体をぼくは知らなかった。人前で目を腫らして泣き叫んだ情けなさなのか、家族への申し訳なさなのか、心を寄せる人から離れたくないと言われることの尊さなのか、それでも自分の決心を行動に移さなければならないという悲しさなのか、全く分からなかった。
いち段落、