炎心(後編)
その様子を伺っていた部屋担当の看護師が
「今朝方、緩和病棟に移られましたよ」
そう教えてくれた。なんとなくその意味は理解できた。
「ご家族の方は来られそうですか」
「ご主人が到着されて付き添われてるみたいです」
少しだけホッとしてわたしは別棟の彼女のもとに足早に向かった。
病院の緩和病棟に足を踏み入れるのは初めてだった。そこには独特の空気が漂っていて、自分の心臓がぬるま湯にプカプカと浮かべられているような、心地良くも少し息が詰まるようにも感じられる不思議な雰囲気だった。ただ、人生の最期を穏やかに過ごせるように、という医療スタッフの配慮は病棟の隅々までびっしりと染み渡っていた。彼女のいる部屋を探してみたが、一向に見当たらず、わたしは病棟の看護師に尋ねた。
「こちらになります」
そうして案内されたのは、普通の病室とは異なり、おそらくまさに最期の一時を大切な人たちと過ごせるように設けられたような部屋だった。そこに家族はいなかった。きっと先程通りかかった明かりのついた部屋で医師から説明を受けていた男性が彼女のご主人だったのだろう。窓にかかるレースのカーテンからは日の光が淡く差し込んでおり、部屋の中央のベッドをあたたかく包みこんでいた。
そこに彼女は横たわっていた。彼女は酸素マスクを口元にはめており、かすかにそのマスクが白くなることを確認してようやくまだ息をしていることが分かるくらいだった。わたしはその部屋で彼女と二人だった。わたしの声は耳に届くだろうか、そう思いながら彼女の名前を呼んだ。ゆっくりと彼女の目が開いた。静寂の空間ではまぶたが開く音さえも聞こえそうだった。
「あら先生…来てくれたの」
その姿とは裏腹に言葉にはまだ力が宿っているように思えた。でもその言葉を口にしてまた彼女は目を閉じて、少し呼吸が荒くなった。必死に話題を探し、困っていることはないかと尋ねようとしたその時、彼女の口元が再び動いた。
「先生は…片頭痛はよく…なったの?」
一瞬、その言葉の意味がわからなかった。意識朦朧として、もしかしたらいわゆる走馬灯のようなものを見ているのかもしれない。そんなことを考えながら彼女とこれまでに交わした会話を振り返って、わたしはハッとした。彼女のもとから足が遠のき始めた時期は雨の日が続いており、わたしは片頭痛に悩まされることが多かった。そしてその最後の日に「最近、片頭痛がきついんですよね」と愚痴を吐くように彼女に話をしたことを思い出した。彼女はそのことを覚えており、そんなわたしのことを気遣ってくれたのだ。残りの人生が数日、もしかしたら数時間しかないような人間が、他の人間の痛みを苦しみを思いやることができるということが信じられず、わたしは言葉を失った。
患者の前で泣いてはいけない。
わたしはただその一心で「大丈夫ですよ。ありがとうございます」と返答した。彼女はホッとしたかのように少しだけ口元が緩んだことが分かった。
「また来ますからね」
と彼女に伝え、わたしは唇を噛み締めながら部屋を後にした。
その数時間後。彼女は眠るかのように、穏やかに息をひきとった。