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【セカイ系?】三島由紀夫『金閣寺』考察-読書会活動記録

読書会概要

甲南読書会vol.10『金閣寺』三島由紀夫
開催日時:2023/10/16 16:30~
開催場所:甲南大学iCommons
参加者:11名(院生3名/学部生3名/教職員2名/学外3名)


以前から、『金閣寺』を課題図書にしたい、とは常々思っていました。
というのも、読書会vol.1『限りなく透明に近いブルー』を実施したとき、学生運動への言及が何度か見られたからです。それはvol.2『風の歌を聴け』の読書会でも同様でした。
1960年代の学生運動を語るとき、三島の存在はあまりに色濃く、避けて通ることはできません。
当時の大学生たちは現代の私たちのような大学生とはなにか別物のように思え、映画『東大全共闘VS三島由紀夫』の話をしながら、そのエネルギーの源泉について語り合ったこともありました。
遠いもののように感じていたそれらが、案外近くにあることに気付いたのは、私たちの活動拠点である甲南大学生協の職員さんたちがきっかけです。60年代後半、70年初頭に大学生だった職員さんたちが当時の学生運動の雰囲気を仔細に話してくださり、そのリアルを覗き見ることで、やはり一度三島作品を読まねばならない、と考えたのです。

あらすじ

 実際の金閣寺放火事件を元に描かれた作品。
 貧しい寺生まれの主人公・溝口は、吃音があることを理由に周囲となじめずにいる。父から聞いた金閣寺の美に囚われたまま、金閣寺で徒弟として働きながら、自身とは対照的な明るい性格の鶴川と友人になる。
 ある日二人は南禅寺の茶室で美しい女性を見るが、その姿は実家の近くに住んでいた有為子と重なる。かつての有為子の死こそが溝口の美的観念に強く影響を与えていた。
 戦後になると、住職の計らいで溝口は大学に進学し、そこで柏木と出会う。柏木は内反足だったがそれを使って多くの女性と関係を持っていた。そのころ鶴川が東京で事故死したことを聞く。
 街を歩いていた際、溝口は住職が女性を連れて歩いている姿を見かけるが、住職はそれを尾行されたと勘違いしたことをきっかけに関係が悪化する。
 家出した溝口は「金閣を焼かなければならない」と決意する。

読書会で出た意見・感想

ページ数については、『金閣寺』新潮文庫/新潮社 令和2年11月1日発行以降の新版を参照。

文章の美麗さ


・「雲の一部分が、多くの重ね着の襟元にほの見える白い胸のように白光を放ち、その白さがいかにも模糊としている奥に、陽の在処が知れるのだが、それはまた忽ち、曇り空の一様な鈍色に融かされてしまった。」(p146)

・「父の顔は初夏の花々に埋もれていた。花々はまだ気味のわるいほど、なまなましく生きていた。花々は井戸の底をのぞき込んでいるようだった。なぜなら、死人の顔は生きている顔の持っていた存在の正面から無限に陥没し、われわれに向けられていた面の縁のようなものだけを残して、二度と引き上げられないほど奥のほうへ落っこちていったのだから。」(p41)

・「彼のシャツの白い腹が波立った。そこに動いている木洩れ日が私を幸福にした。こいつのシャツの皺みたいに、私の人生は皺が寄っている。しかしこのシャツは何と白く光っているだろう。皺が寄っているままに。……もしかすると私も?」(p51)

・「蚊帳は風を孕みかけては、風を漉して、不本意に揺れていた。だから吹き寄せられる蚊帳の形は、風の忠実な形ではなくて、風が頽れて、稜角をなしていた。畳を笹の葉のように擦る音は、(以下略)」(p69)

また本作は雑誌『新潮』において1956年の1月号から10月号で連載されていたこともあり、それぞれの章が美しく完成しているとの指摘もありました。
・4章の終わり「そのとき一人の女がむこうから歩いてきた。」(p136)と続きを気にならせる終わり方

一人称で進む物語

・溝口の一人称で物語は進行していくが、自分自身さえも突き放したような客観的な文章。
・吃音があるが、地の文、溝口のカギカッコ内でもあまり吃音的な発話の描写はなされない。しかし読者にはどもりながらしゃべる溝口の様子が思い浮かぶ。
・客観的ではあるものの、「私の綿密さを認めてもらいたい。」(p314)などところどころで自分の気持ちを率直にあらわす文章がある。

溝口と柏木/行動と認識

・柏木「この世界を変貌させるものは認識だと。いいかね、他のものは何一つ世界を変えないのだ。認識だけが、世界を不変のまま、そのままの状態で、変貌させるんだ。認識の目から見れば、世界は永久に不変であり、そうして永久に変貌するんだ。」(P273)
・溝口と柏木は世界の解釈が異なる。溝口は行為によって実在する世界を変えたい。柏木は認識によって自分の世界を変える。

見ることと見られること

・「肉体上の不具者は美貌の女と同じ不敵な美しさを持っている。不具者も、美貌の女も、見られることに疲れて、見られる存在であることに飽き果てて、追いつめられて、存在そのもので見返している。見たほうが勝なのだ。」(p117)
・「存在そのもので見返す」←サルトルっぽい。なお三島は『東大全共闘』の際に「私はサルトルが嫌いです」と発言している。しかし存在によって存在を確かめる、という点でサルトルの影響は伺える。
・溝口は有為子のこと、南禅寺で出兵する夫とその妻のことなど、覗くシーンが多い。一方最後は、桑井禅海和尚に「私を見抜いて下さい」「私の本心を見抜いて下さい」(p311)と、見られる存在になろうとする。しかし、和尚は「見抜く必要はない。みんなお前の面上にあらわれておる」と答える。
・男性は「見られる」ことを意識することが少ない?足の悪いこと、吃音など不具が男性を「見られる」存在にする。
・金閣寺は「見られる」だけの存在。一方的にまなざされるだけの存在。
・現代において「見られる」ことは消費されること。モノ化。SNSなど。
・死体も同様に「見られる」だけの存在。物質化。
・三島自身は、男性であり、不具でもないが「見られる」存在、あるいは「見られたい」。金閣寺執筆時に始めた筋トレなど、戦後にコミットしていく三島のその表面的な部分は柏木と重なる。
・映画『黒蜥蜴』で美しい人間を集めるシーンで上裸の三島が映る。

戦争と三島由紀夫

・「国のために死ぬ」という価値観が渦巻いていたであろう当時に、三島は軍医の誤診によって徴兵されなかった。その後の右傾化する三島の思想に影響?なお、溝口は年齢の問題でそもそも徴兵されない年代だった。
・天皇の名の下に文化を守らなければならない、と主張する『文化防衛論』。緻密な論立てがなされるものの、最終的な文化防衛としての天皇についての話は飛躍がある。感覚的に強い思想があるものの、言語化できないものがあった。
・今まで信じてきた伝統的なものが敗戦後に残ってしまうと自分の信じていたことが逆転してしまう。いっそすべてなくなってしまった方がいいという敗戦の落胆。戦争前の日常がそのまま戻るわけでもない。戦争の乗り越え方として右傾化していった?

溝口を取りまく人間関係の異質さ

・弱い父性:実父は病弱で、また自身の妻の不倫現場でも溝口の目を手で覆い、見えないようにするなど、行動の弱々しさが伺える。また道詮和尚は女遊びが好きで、また肌の様子などが「桃いろのお菓子みたいに見え」る。
・鶴川と柏木という両極端な友人。また鶴川が死んでから、柏木によって柏木と鶴川の関係性が明かされる。柏木の意地の悪さ。溝口が見ていた鶴川と、実際の鶴川に乖離があることを知る。しかし溝口は、「私は記憶の意味より、記憶の実質を信じるにいたった。」(p272)とする。
・女性について:実母は教育ママのような感じだが、夫と子供といる空間で不倫行為をするなど性的奔放さがある。また女性の腹を踏みつけるシーンでは女性へ対する歪んだ認知、モノ化が伺える。

偶像的な有為子と肉体的なまり子

・出てくる女性のなかで名前が与えられている二人。
・有為子の死は溝口の美的観念に大きく影響を与える。有為子は溝口にとって金閣寺であり、『南泉斬猫』の猫でもある。
・有為子にとって溝口は視界の隅の人間で大した存在ではない。溝口が突然暗がりから目の前に出てきて何も言わないので有為子が気味悪いと感じるのも無理はない。金閣寺と溝口の関係も同様で、金閣寺にとって溝口は認識するまでもない存在。有為子は溝口を拒絶し、また同様に金閣寺も、戸を叩いても入れないなど、溝口を拒絶している。
・まり子は「女の、考えない柏木が、まり子であった。」(p294)と溝口は評している。ある種の誉め言葉のようでもあり、またこちらでも歪んだ女性認知があるといえる。

有為子の裏切りの真偽

・有為子の裏切りは見せかけであり、二人の死は事前に申し合わせた上でなされた心中だったのではないか→溝口の一人称小説であることを踏まえて、有為子の裏切りを偽と仮定すれば溝口の目線の信憑性、審美眼が問われる。

見えない金閣寺

・最初の金閣寺との出会いは父からの伝聞で、直接見たわけではない。そして燃やした後左大文字山の頂からも「ここからは金閣の形は見えない。」(p330)

「思い込みの人」溝口

・金閣寺は美しいもの、というのも父に刷り込まれたもの。「私には自分の未知のところに、すでに美というものが存在しているという考えに、不満と焦燥を覚えずにはいられなかった。美がたしかにそこに存在しているならば、私という存在は、美から疎外されたものなのだ。」(p28)
・美醜の価値観は溝口のなかにはなく、他から与えられたもの。事物として美を見ているわけではなく、最初に美のイデアを得て、それを演繹的に使っていく人。普遍的な美の捉え方と逆転している。
・「美は……美的なものはもう僕にとっては怨敵なんだ」(p275)
→自分を世界から切り離すことで防衛する。見るだけで参加しない。妄想に囚われる。オタクっぽさ。

「生きようと私は思った。」(p330)

・この一文、この結末には共感できる読者、共感できない読者がそれぞれいるようだった。
・映画『炎上』では電車から飛び降り自殺をしている。
・実際の事件、林養賢は山で見つかり逮捕。統合失調症と診断され加古川刑務所から京都府立洛南病院へ、その後26歳で亡くなる。
・直前に「一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように、」とあることから、溝口は金閣寺を燃やすことで、内界と外界を接続し、「人並」になれた?
→放火魔かと思ってみていた大学生のくだりとのオーバーラップ。

「人並」になりたい溝口

・大滝へ行った際、女たちは溝口を人並に扱った。
・「私はただ災禍を、大破局を、人間的規模を絶した悲劇を、人間も物質も、醜いものも美しいものも、おしなべて同一の条件下に押しつぶしてしまう巨大な天の圧搾機のようなものを夢みていた。」(p61) 
→他者から承認を得られない溝口は金閣寺を燃やすことで観念的な上位の美とも同一化できる 
←金閣寺を燃やしたあとに吸ったタバコの煙と金閣寺から昇る煙はその同一化を示しているとも捉えられる

『金閣寺』はセカイ系?

・自分が変わるか、世界が変わるか。
・自分の個人的な考えを世界に結び付け、世界を変えようとする。

読書会を終えて

後日、学生5名で、読書会を終えて考えたことを話し合う座談会を実施しました。
『金閣寺』の読解そのものからは少し離れながら、発展した内容が主な話題になっていますが、こちらは今度発売する甲南読書会ZINE『回遊』創刊号に掲載予定です。

座談会の内容

〇破滅型の主人公
〇父について
〇認識と行動
〇「生きようと私は思った。」
〇溝口と柏木/サルトルとマードック?
〇マードックと『金閣寺』
〇言葉と現実の乖離
〇金閣寺を「見る」とは


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