自己開示ができないのは、自分が粗鬆だからだ
まずは、粗鬆という一般にあまり使われない言葉を用いたことを言い訳したい。
骨粗しょう症の「粗しょう」だ。中身がスカスカで脆いことを示す。
「スカスカ」という言葉でもよかったのだが、「頭がスカスカ」のような言い回しに感じる、非難のニュアンスを消したかった。
目をかけられず、手入れをされず、疎かにされ続けたものがもつ、哀愁のようなものを含めたかった。だから今回は、「粗鬆」を使った。
さて、私はいま、「自己開示」ができる人を目指している。
一般に、「自己開示」は自分の素をさらけだすこと、「自己呈示」は自分が他人からどう見えるかを計算し、意図をもって自己を示すことだ。
自己開示は相手への防御壁を取り払い、フラットで心地いい人間関係を招くが、自己呈示は防御的で、プレッシャーのかかった関係を招いてしまうらしい。
私はすぐに、自分をよく見せたいと思ってしまう。こういう文章を書いていてもそうだ。ちょっとでも頭がいいと思われたい。
そしてそういう気持ちで書いた自分の文章が、たまらなく嫌いだ。
「自己開示」できるようになるためには、自分を磨くことが必要だと思う。
私が中身のない“スカスカ”な人間だから、虚栄を張ってしまうのだ。もっと中身を充実させないと。
けれども実は、そんな「自分を駄目な人間だと決めつけたい気持ち」が、“スカスカ”な自分を招いているのではないだろうか。
何をしていても楽しくない。趣味が見つからない。何を趣味にしても、間違っているように思う。
他人の感性が、行動が、正しいと思う。
自分が「いい」と思う気持ちは、勘定にも上がらない。
他人に注目し、流行りを迎合し、自分はちゃんと“今どきの”若者なんだと取り繕う。
つい自己呈示しちゃう訳である。
だって私は「粗鬆」なのだ。空っぽに見えるようになっちゃったのは、ずっと捨て置かれていたからなのである。
自己開示ができるくらいの人間力を身につけるためには、まずは自分に目をかけなければならない。
自分が何を楽しいと思うか、好きだと思うか、注意して見てあげないといけない。
私自身は多分、本質的に“スカスカ”な訳ではない。けれど、他人に視線を集中させすぎて、自分にやる視線が、ほとんどなくなってしまった。
だから、自分にやる注目を増やすことが、自分磨きへの第一歩なのではないかと、最近は思うようになった。
やたらインテリアに凝った部屋が落ち着かないのは、置く家具に注目しすぎているからだ。居心地のいい部屋というのは、どんな家具を置くかに関係なく、愛着をもって、手入れをし続けている部屋なのだ。
私は、他人に居心地がいいと思ってもらえる人間になりたい。
自己開示ができる人間に。
……自己開示への道のりは、まだまだ遠そうである。