今日のお月様、切った後の爪みたい
その日の私はイライラしていた。習い事に行きたくないと鼻水を垂らして泣く男の子に。そんな事言ったって、先生は習い事をやめさせてあげられない。意味が分かんない。もう一回言って。だから、先生にその権利はないの。権利って何?先生の言葉って、全然分かんない。そんな応酬を、3時間にも渡ってした後だった。
結局その子は習い事には行かなかった。行かなくて済むと分かった瞬間泣き止んで、ぱーっと遊びに出かけた。イライラした。何だよ、好きな事ばっかりしてさ。嫌な事から逃げるなよ。あんなに分かりやすく説明したのに、どこが悪かったんだ。何が分かりづらかったんだ。そんな事を思って、机の上で飲み頃を逃された、冷めたコーヒーを立ったまま飲んだ。ああ、何でこんなにイライラするんだろう。ダメだ、イライラしないで「どうして行きたくないの?」と、優しくその子の根っこを見つけてあげなきゃいけないのに。
どうにも虫の居所が悪かった。おおよその子が帰宅して、秋の夜風も負けるくらいの熱気が篭っていた部屋は、残った数人が走らせる静かな鉛筆の音だけ響いていた。
今日の出来事を日誌に書かないと。ああ、何の仕事も終わってない。晩御飯は9時を回るな。お腹すいた。早く終わらせて、帰りたい。そんな自分の都合ばかりを考えて、肩に重くのし掛かる「これから」に押し潰される様に頭を下げた。鉛筆の音に、少しだけ圧の掛かったタイピングの音が加わった。
誰かがそっと立ち上がった音がした。構わずパソコンの画面だけを見つめていた。だって早く帰りたいんだ。先生だって。
「先生、カーテン開けといたよ」
と、いつの間にか傍にいた、まんまるの笑顔が可愛い男の子がそっと私に告げた。誰かが静寂を破るのを待っていたかのように、一斉に立ち上がって窓辺に向かう子どもたち。ハイハイ、分かった分かったあと少しだから座ろうね、と言おうと顔を上げた。カーテン越しに見える夜空は、群青と茜が混ざった色をしていた。
思わず私も「空の色、きれいだね」と声を上げた。安心した様に、まんまるの笑顔が得意げに告げた。
「今日のお月様、ずっと切った後の爪みたいだと思ってたんだ」
大人に手を取られて、大事に切られた小さな爪のかけらが床に散り、それを丸い指先で集める姿が見えた気がした。皆で窓際へ行き、窓を開ける。「風、あったけ〜」と間の抜けた声が私の胸元から聞こえた。ほんとだ、お月様は切った後の爪みたいだ。
私は爪を切る度に、きっとこの日の事を何度も反芻するんだろうなと思った。二日月なんて、新月の次の日だよ、なんて、言葉で説明しなくてもいいんだ。私達は「切った後の爪」でいつでも繋がっていた。