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茶の湯の歴史 千利休

千利休(せんのりきゅう)

鎌倉時代に禅の伝来とともに喫茶文化(きっさぶんか)として茶も伝わった。喫茶文化とそこに禅の心を取り入れて質素な道具の中に美しさをみいだし「わび茶」を大成させたのが千利休(せんのりきゅう)。精神世界に茶の湯を落とし込み現在まで表千家、裏千家、武者小路千家の三千家をはじめとして多くの流派が受け継いでいる。織田信長、豊臣秀吉に支え秀吉の命令により床の間や壁などに金箔を貼った「黄金の茶室」をしつらえたりするが、日本人の精神性を伝える「わび」、「さび」の心のわび茶を完成させた。

千利休以前の室町時代、お茶の楽しみ方は産地や品種を飲み分けて勝負を競う闘茶(とうちゃ)が流行し、器などを自慢するのが茶会の場でした。そのような茶の湯に精神面を取り入れたのが仏教界に反骨心を抱いていた禅僧一休宗純の弟子の村田珠光(むらたじゅこう)。村田珠光は高価な茶器を集めて自慢する風潮を戒め不足の美(ふそくのび)を提唱。高価でない普段使いの茶碗や、欠けている品でも、こちらが心で補って満たせばよいという考えを示し、初めて「侘び」という言葉を使った。村田珠光の没年に生まれた武野紹鴎(たけのじょうおう)は、村田珠光を心の師とし、必要なものをそぎ落として表現するという禅の思想を茶の湯にとりいれ「茶禅一味(ちゃぜんいちみ)」という考えを説いた。茶の質素化につとめ、普段使いの茶碗を茶の湯に使い、大部屋で開かれていた茶会を屏風で区切って4畳半の間で開いた。

堺市所蔵 千利休

千利休はさらに、二人の師の教えに「おもてなし」の心を付け加えたとされる。しつらえは余計なものをそぎ落とし、来客が満足するように、心づくしのもてなしをするというのが、利休のわび茶の精神である。

利休の考えをまとめた「四規七則(しきしちそく)」が現代に伝えられている。
四規とは和敬清寂(わけいせいじゃく)。

「和(わ)」とは、お互いに心を開いて仲良くするということ。
「敬(けい)」とは、尊敬(そんけい)の敬で、お互いに敬(うやま)いあうこと。
「清(せい)」とは、清(きよ)らかという意味だが、目に見えるだけの清らかさ
ではなく、心の中も清らかであるということ。
「寂(じゃく)」とは、どんな時にも動じない心。

七則とはお客様をもてなす時の七つの心構えで、
・茶は服の良きように点(た)て
・炭は湯の沸くように置き
・冬は暖かく夏は涼しく
・花は野にあるように入れ
・刻限は早めに
・降らずとも雨具の用意
・相客(あいきゃく)に心せよと伝えられています。

*服の良きようとは、お茶を飲む人にとって丁度良い加減

七則の意味としては、「心をこめ、本質を見極め、季節感を大切にし、命を尊び、ゆとりを持ち、柔らかい心を持って互いに尊重しあう」ことが大切だということでしょう。茶の湯の心というのは人間関係や普段の生活面にも通じます。

千利休の生涯

1522年(大永2年)堺の魚問屋の商家に生まれる。本名は田中与四郎、本名とは別に使用する号は宗易(そうえき)。父親は会合衆の役員で家業を継ぐために16、17歳ごろより茶の湯を習い始め、18歳の時に当時の茶の湯の第一人者であった武野紹鴎に師事し、23歳で茶会を開く。

1573年(天正元年)52歳の時に堺の商人今井宗久(いまいそうきゅう)、津田宗及(つだそうぎゅう)とともに茶頭(ちゃがしら)として織田信長に重用される。茶頭とは茶の湯をもって主君に仕え、主君の茶会で茶を点てたり、道具を管理するなど茶の湯全般に携わるが、政治への影響力も大きかったとされる。1582年6月に本能寺の変で織田信長が自刃。1585年64歳、正親町(おおぎまち)天皇に茶を献じて「利休居士号」をたまわる。1587年10月66歳、豊臣秀吉が自ら茶をふるまう京都北野天満宮での北野大茶会を開催し千利休は天下一の茶匠の地位を築いた。

1589年12月68歳、千利休が京都大徳寺に「この門をくぐるものは金毛の獅子(優れた禅僧)となって多くの人を救済すべし」との意味を込めた山門金毛閣(きんもうかく)を寄進、そこに利休像を安置した。1951年1月22日70歳の時、豊臣秀吉の異父弟の豊臣秀長が死去し、千利休を取り巻く状況が一変する。2月13日豊臣秀吉の命で堺への蟄居(ちっきょ)を命じられ追放される
が、同26日堺から京都に護送、28日切腹にてこの世を去り、一条戻り橋に首が晒された。

今は趣味で茶の湯をするのが普通であるが当時は命をかけておこなう時代であった。千利休が切腹を命じられた理由は不明だが、京都大徳寺の山門「金毛閣」に自身の像を安置したことで秀吉が参拝の際に千利休の像の下をくぐるのが不遜とされたため。あるいは秀吉の弟秀長の死を受け千利休の存在が邪魔だった石田三成が追い落とした。秀吉から娘を側室に求められ断ったため。不当な金額で茶道具を売買し巨利を得たため。派手好きの秀吉の赤楽茶碗と、わび茶を極めた千利休の黒楽茶碗など茶の湯への考え方の違いからなどと諸説ある。千利休の墓は京都大徳寺の聚光院(じゅこういん)にあり、生まれ育った故郷の堺にはかって修行をした南宗寺(なんしゅうじ)に供養塔がある。旧暦の2月28日が千利休の命日であることから茶の湯の世界では3月に利休忌(りきゅうき)の行事がおこなわれる。床の間に利休の姿が描かれた掛け軸などをかけ、茶湯(ちゃとう ちゃのゆ)を献上する。

一休庵にて…利休の掛け軸を掛け茶湯を献上。3月におこなわれるので花は菜の花などが用いられる。


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